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君なら〈この世界〉を肯定するか否定するか?

書評:昆布山葵『同じクラスに何かの主人公がいる』(KADOKAWA)

「同じクラスに何かの主人公がいる」。明らかに「主人公」キャラだ。それに比べれば、僕はどう見ても「モブキャラ」である。一一そう自覚している「語り手」が主人公の「メタ・フィクション」だ。

その特異な世界を、語り手は、本書の読者とほぼ同じ視点に立って、激しくツッコミを入れながらも、その物語の作中人物として、この物語の世界に深く巻き込まれていく。当初は、その物語世界から一歩退いたモブキャラの位置を堅持して、無難な生活を送りたいと願うが、当然のことながら、作者はそれを望んではいない。

語り手は、否応なく「主人公の親友」になり「ヒロインの親友」ともなって、しだいに彼らに友情を感じるようになっていく。そして、その物語世界から逃れることのできない主人公とヒロインを助けるためなら、この物語に巻き込まれることも辞さないと、やがて自らその物語世界の深みへと踏み込んでいく。

物語前半は、「フィクションのお約束」にツッコミを入れまくる、一種の「批評」的な作品になっている。無論、そのワンアイデアで長編小説を持たせるには弱いと予想されたが、この問題は、語り手がやがて物語世界にすすんで巻き込まれていくことで解消され、一種の「友情物語」であり「運命の引き受け」物語としてのドラマ性で、読者を牽引していくというオーソドックスな展開を見せる。そして最後は、今どきの作者らしい、好感のもてる「前向きなハッピーエンド」を迎えることになる。
一一しかし、この非常にまとまり良い、無難な完成度の高さは、どこかで「小説としての弱さ」を感じさせる。

たしかに、センスの良い達者な作家だし、読後感の良い作品で、嘘いつわりなく「面白かった」とは言えるのだけれど、この作品が、長く読者の心に残ることは、多分ない。ひと月を待たずに忘れ去られてしまうのではないか。
作者は、それを承知で、つまり「いっときの気散じ作品でかまわない」と、このエンターティンメントを書いたのかもしれないが、しかし、かなり達者な書き手であると認めればこそ、もうすこし背伸びをしても良かったのではないかと、私には少々惜しく思われた。

この作者に弱点があるとしたら、それは「技術的な才能はあるけれど、一流の作家になろうというほどの、欲や熱意に欠ける」といったところだろうか。
「モブ作家」で良いとは思っていないだろうが、歴史に名を残す「主人公作家」になろうというほどの欲もない。ただ、ちょっとした売れっ子になれれば良いという、無難な良い子ぶりを感じないではいられなかったのである。

本書を読んでいて思い出したのは、例えば、手塚治虫の短編「そこに指が」、山田正紀『神狩り』、筒井康隆『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の「七瀬3部作」などであるが、これらの作品と本作の違いは、これ等の作品が、「作者の専制」に対する「作中人物」たちの「強烈な違和感や嫌悪感」とそれに由来する「命がけの無駄な抵抗」を描いているのに対し、本作の場合は、「作者の専制」に対する反発がとおりいっぺんで、実質的にはそれを「与件」として受け入れている「おとなしさ」が、たしかに感じられた。

無論、作中人物の「作者への抵抗」とは、所詮それも「作者の意志」に拠るものでしかなく、すべては「お釈迦様の掌の中」での「操り人形の虚しいあがき」でしかないのだけれども、だからと言って「作者の専制」を肯定しようという気が、手塚や山田や筒井には見られなかった。彼らには、どこかで「作中人物の反乱」に期待するロマンティシズムが感じられたのだが、本作の作者には、それを「はかない夢」だと諦めてしまっているような、いかにも今どきの「物わかりの良さ」が感じられる。

それはたしかに、賢明な態度なのだろうと思う。しかしまた、「創作」とは、「あり得ないと思えること」を夢見る「ロマンティシズム」無くしては、「現実」を撃つものにはならないのではないだろうか。

初出:2020年4月4日「Amazonレビュー」