見出し画像

無知なリアリストが〈可能性〉をつぶす

書評:松尾匡 編『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房)

現在の「安倍晋三 自民党政権」の酷さは目に余るものであり、戦後最悪の政権と呼んでも、決して過言ではないだろう。
『女性セブン』誌2020年7月23日号所掲の記事「安倍政権、7年半の不祥事を振り返るとこんなにあった」のまとめによると、概ね次のようなことになる。

● 2012年12月26日 第二次安倍政権発足
● 2013年9月7日  五輪招致「アンダーコントロール」発言が物議
● 2013年12月6日 特定秘密保護法の強行採決
● 2014年10月20日 小渕優子経産大臣が違法献金で辞職
● 2014年10月20日 松島みどり法務大臣が「うちわ」問題で辞職
● 2015年7月15日 安全保障関連法案強行採決
● 2016年1月28日 甘利明経済再生大臣が「口利き」疑惑で辞職
● 2016年7月22日 伊藤詩織さん事件で山口敬之氏不起訴
● 2017年2月17日 森友問題発覚
● 2017年4月26日 今村雅弘復興担当大臣が失言で辞職
● 2017年5月17日 加計学園「総理のご意向」文書報道
● 2017年7月28日 南スーダンPKO日報隠蔽問題(稲田朋美防衛大臣辞職)
● 2018年3月7日  近畿財務局の男性職員が自殺
● 2018年7月14日 「赤坂自民亭」が炎上
● 2019年4月10日 桜田義孝五輪担当大臣が失言で辞任
● 2019年11月18日 「桜を見る会」問題
● 2020年5月21日 黒川弘務東京高検検事長辞任
● 2020年5月28日 持続化給付金事業の電通中抜き疑惑
● 2020年6月18日 河井前法務大臣・案里夫妻が逮捕

無論、こんな不祥事だらけの政権は前例がないのだから、「ネット右翼」だの「日本会議」だのといった安倍政権の信者たちを別にすれば、ほとんどの日本人は、安倍政権を終らさなくてはならないと考えるのではないか。

ところが、どんな不祥事が起ころうと、一時的に支持率が下がることはあれ、結局はそれなりに安定した支持率を保ってしまうのが、安倍政権の不思議な力であった。
安倍政権を支持している人の多くは、「ネット右翼」だの「日本会議」だのといった、安倍政権の信者ではない。なのに、なぜ彼らが安倍政権あるいは自民党を支持するのかというと、「ほかに政権を任せられそうな政党が見当たらない」ということが大きいらしい。安倍政権は「ダーティー」だが、他の党は「頼りない」ということのようだ。

こうした「印象」が形成された大きな要因としては「民主党政権への失望」という事実は避けて通れない。
「党内党派政治」に明け暮れる旧来の自民党政権にウンザリした国民は、清新な「民主党」に大きな期待を寄せて政権を任せたのだが、民主党は、理念の言葉だけが先行して、実際的な成果を一向に上げないまま、短命政権に終ってしまう。
そして、期待が大きかっただけに、国民の失望も大きかった。「野党として文句を言うだけなら誰でもやれるが、政権を担うという責任を引き受けるだけの実力が、今の野党には無い」と、国民は判断した。だから、当時、流行った言葉は「代案を出せ」だったのである。

 ○ ○ ○

そして、現在もなお、基本的にはこの状況が続いている。
安倍政権のやりたい放題にはウンザリだが、さりとて、それに代わって政権を預けられるような野党は見当たらない。「彼ら野党はアラ探しと反対は出来ても、政権を担う力を持っていない」と、今も国民の多くはそう感じている。だから、「よりマシ」の「やむを得ない選択」として安倍政権は、今も延命し続けているのである。

こうした、国民の野党理解が、必ずしも正しいとは思わない。なにしろ、国民は「政治政策」に関して無知なのである。問題は、無知なままで、それについて勉強しようとはしない点だ。だからこそ、無難に「現状維持」に走ってしまうのだが、もはや日本は、そんな甘ったれた「怠惰」を許される状況にはない。
百田尚樹の『カエルの楽園』ではないが、今の日本人がおかれている状況は「とろ火で徐々に茹であげられる、鍋の中のカエル(茹でガエル)」そのものだ。今は何とか堪えられるにしても、茹で上がって死にいたるのは、時間の問題なのである。だが「茹でガエル」には、その危機感が無い。彼らには「近視眼」しかないからである。

しかしまた、多くの国民が、野党に期待できないのは故無きことではない、というのも事実だ。端的に言って、今の野党には「希望の持てる具体的な展望」に乏しく、具体的な政策が無いのである。あったとしても、与党のそれと大差が無かったり、また実現困難な抽象的議論であったりするために、国民の多くは、野党に期待できないのである。

そして、特に問題となるのが「経済政策」である。
今の日本に「希望」が失われている。そうした失望の最大の要因とは、抽象的な「自由と平等」の問題などではなく、端的に「経済的な行き詰まり」なのだ。

そこが何とかなれば、他の部分での問題も打開されるだろう。平たく言えば「金持ち喧嘩せず」で、国民の多くが、経済的に余裕を持てるようになれば、多くの問題にも余裕を持って対処できるはずなのだが、その「経済問題」においては、与党も野党もともに「低成長時代」を自明視しており、経済成長が無いこと、金(財源)の無いこと(消費税増税くらいしかないこと)を大前提として、これからの日本をどう運営していくかの議論しかしないので、国民は絶望するしかないのである。
どっちにしろ、今の行き詰まりが打開できないのなら、野党の言う「改革」など小手先のものでしかないのは見えた話なのだから、やはり無難に自民党政権に任せておいた方が良い、ということになってしまうのである。

またこれは、野党の支持者にとっても、大きなジレンマであった。
野党が正しいのはわかっているが、では野党に今の日本を変えていくだけの力があるのか、その力をあなたは保証できるのかと言われると、思わず言葉に窮してしまう。そして「今の自民党よりはずっとマシな、国民のための政治をやりますよ」とは言えても、正直なところ「結果」までは保証しかねるのだ。「とにかく、今の犯罪的な安倍政権よりはマシ」だとは言えても、具体的な国家運営について、今の野党に安心して任せられるほどの力量があるとは、野党支持者ですら、確信と呼べるほどのものは持てないのである。

ことに問題となるのは、やはり「経済政策」だ。
前述のとおり、基本的には、与党も野党も、この先の日本の経済成長の可能性には悲観的である。政策の大前提は「低成長」であり、問題は「小さくなったパイの配分比率」でしかない。つまり、野党の言い分は「経済的二極化によって、大企業や金持ちが独占している金を、国民に回せ(再配分せよ)」ということでしかない。

しかし、現実的に「金や力」をもった「企業や金持ち」を敵視した政治が、うまくいくとは国民の多くも考えていない。やはり「金や力」を持った「企業や金持ち」も、自分たちの利益や資産を全力で守ろうとするだろうから、そうなった場合、野党の掲げた理念の実現はきわめて困難となろうし、そのあげくが「民主党政権の二の舞」となる怖れが大きいと、あたりまえに予想してしまうのである。だから、野党のご立派な政策案には「現実性がない」ということになり、期待されないというのが、偽らざる今の日本の政治状況なのである。

 ○ ○ ○

では、「弱者の側に立つ政治」に、もう何ひとつ「希望」は無いのか?

いや、ここにひとつだけ、「希望」の持てる「政策案」がある。一一それが「反緊縮」なのだ。

「反緊縮」とは、言うなれば「これからも、やり方次第で経済成長は可能だ。だから、失望することはない」というものである。

従来の「緊縮財政」とは、「低成長」を自明の前提とした政策である。「日本には、膨大な借金があり、それを減らさないかぎり、日本に未来はない。だから、国民は緊縮財政に堪えて、経済の健全化を図らなければならない」というのが、今の自民党政権の基本的な考え方であり、こうした点では、野党の現状認識に大差はない。野党にとっての問題はあくまでも、こうした現状認識を前提とした「小さくなったパイの配分比率」の問題でしかないのである。

だが、「反緊縮」だけは違う。
「反緊縮」とは、単に「緊縮に反対する」だけのものではなく、「経済は活性化できる」「パイの奪い合いをしなくても、パイ自体を大きくする(経済学的に裏づけられた)方法がある」という主張なのだ。

しかしまた、「反緊縮」とは、単に「緊縮する必要はない」という主張ではなく、「緊縮は、経済においては逆効果だ。だから、緊縮してはならない」という、積極的な提言である。
喩えて言うならば「反緊縮」とは、「お金が減るのを怖れて、家に引き蘢っているだけでは、やがてお金を遣い果たして死ぬしかない。そうではなくて、積極的に出ていって、お金を有効に遣うことが必要なのだし、その〈お金を作る方法〉はある」という主張なのである。

そんな「うまい話」はあるのか、と疑う人も少なくないだろう。それ自体は賢明な態度だ。
しかし、疑問に思うのであれば、それを自分の目で見て確かめるべきだろう。つまり「反緊縮」とは何かを、学ぶべきだ。

そのうえで「これは信用ならない」と思うのならば、それはそれで仕方がない。
しかし、その「可能性」について勉強をし、自分の目で確かめることもせずに「どうせダメに決まっている」などと決めつけ、現状追認にあまんじるのは、まさに「茹でガエル」だと呼ばれてしかるべき、文字どおりの負け犬ではないだろうか。

 ○ ○ ○

「反緊縮」とは、死に体の日本経済の現状を、諦めをもって追認するのではなく、変えることができるという「経済理論」である。そして、これを提唱したのは、経済学者ジョン・メイナード・ケインズだ。
経済学を知らずとも、ケインズの名前を聞いたことくらいはある人なら多いのではないだろうか。それくらい、有名な経済学者であるケインズが、「デフレ期における経済政策としての反緊縮」理論を提唱していたのである。だから「反緊縮」は、昨日今日に出てきた「異端の理論」などではない。

戦後長らく主流であったケインズ経済学は、しかし、世界を「貪欲経済」に引き入れた「新自由主義によるグローバリズム経済」の理論的支柱となった、ミルトン・フリードマンによって批判され、今は「非主流」となっている。
だが、「新自由主義によるグローバリズム経済」の弊害が明らかになってきた今、再び脚光を受けはじめているのが、ケインズ経済学なのだ。

ケインズの「デフレ期における経済政策としての反緊縮」理論は、新しい経済理論である「MMT(現代貨幣理論)」とも共鳴しあって、世界における「反緊縮」の流れの理論的支柱となっており、日本においてはまだまだ知られていないが、ヨーロッパにおいてはすでに、庶民の側に立って「緊縮政策」に対抗する、一大勢力を形成してる。
つまり、日本の一部の経済学者が、ハッタリめいたことを言っている、というようなことではない。すでに「反緊縮」によって、経済的復興を為し遂げている国もあるのである。ただ、そのことに、日本人大衆は無論、新自由主義系であるフリードマン系の、現在の主流派経済学者が、その党派性において、「反緊縮」政策の可能性を認めようとはせず、いたずらに「わかりやすい緊縮政策」を続けて、足切り的な政策、つまり貧しい者に犠牲を強いることで、恵まれた者による国家を生き延びさせようとしているのだ。

だが、「大企業の経営者」でも「金持ち」でもない私たちは、彼らのために犠牲にならなければならないのか?
彼らのための「国家」の、犠牲にならなければならないのか?
われわれは彼らのために、奴隷も同然の低賃金労働を強いられたあげく、使い捨てにされなければならないのだろうか?

そんなことはないはずだ。また、そんなことを認めてはならない。

あなたは、自身が負け犬であることを認めて、彼らの食い物にされることにあまんじる生き方を受け入れるかも知れない。
しかし、金持ちと貧乏人に二極化した「階級社会」では、その階級が固定してゆるぎないものとなり、あなたの子供や孫に引き継がれ、そこから這い上がる機会すら奪われるのだという現実を、直視すべきである。

だから、あなたに「あきらめる」権利などない。
ならば、あなたは何に賭ければいいのか。

一一その答えが「反緊縮」なのだ。

本書は、いろんな著者がそれぞれの立場から、「反緊縮」政策の必要性とその理論の解説を語っており、通読すれば「反緊縮」が、絵空事ではないということが理解できるようになるはずだ。

もちろん、この1冊で、すべてが完全に理解できるとは言わないが、もともと数字に弱い文系の私でも、本書編著者である松尾匡の著書を『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう ――レフト3.0の政治経済学』に続いて読んだところ、「反緊縮」には、政治的選択を賭ける価値がある、と思えるところまで理解が深まった。
そして、「反緊縮」理論の理解に供しうるという点では、本書の方が、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』よりもずっとわかりやすいと思う。

だから、まず本書を手に取ってほしい。
そして、私たちにも、まだ「希望」はあるということを知ってほしい。
私たちに残されているのは、決して「撤退戦」だけではないのだ。
日本は、まだ経済的に再生することが可能であり、それに賭けないというのは、あまりにも臆病なのではないだろうか。

だから、本書から始めて、「反緊縮」を勉強してほしい。
きっと、あなたの眼前にも「希望の一灯」が点るはずだ。

「諦めと無知」が、未来を潰してしまう。
だからあなたも、この「反緊縮」という灯をかかげて、一歩前へと踏み出してほしい。

経済成長を諦める必要はない。日本は、まだやれるのだ。

初出:2020年8月24日「Amazonレビュー」

 ○ ○ ○