【第17回】 泥と人

仕事を辞める。
新卒で入って、一年……いや、11ヶ月働いた会社を辞める。

なかなか就活がうまくいかなかった私に、最後の最後で決まった、世間体のいいところだった。
拾ってもらったこの会社で粉骨砕身しようと、家を出た。初めてのひとり暮らしだった。

数カ月経つと、職場環境の異様さが目につくようになった。
横行する裏金作り。ある一人には社長でさえ、誰も逆らえない組織体系。繰り返される不正、その度の責任転嫁。日に5時間、6時間のサービス残業、手当のない休日出勤。新人へのセクハラ、パワハラ、モラハラ。
耐えろ耐えろと自分を叱咤したが、新人にすら自分のミスを押し付けようとする上司に、あるとき心は簡単に折れた。

仕事を辞める。
やっと乗れた社会の、“正しい”レールだと思っていた道を外れる。

高校生の折にうつ病を患い、大学に入って療養を続けた末の寛解と就職だった。
運がないとは思うが、今はただ、とても眠い。

職場でポキリと心が折れたあと、私の体にはわかりやすく、再びうつ病の症状が現れ始めた。
日中の眠気、集中力と理解力の低下、ぼんやりとした希死念慮。
ただひたすらに毎日が眠たくて、自分の感情が薄皮一枚隔てた向こう側にあるような感覚があった。
何度も、これは甘えだろうかと自問した。そして先日、甘えだろうと関係ない、私は私を死なせるわけにはいかないと、私は情けなくも小さな決意を孕んだ答えを出した。

眠たいなあと思う。
ただただ、眠たいと思う。
仕事を辞めたら、何も考えずにゆっくり眠る日を得よう。
次のこと、先のことを考えずにその時の欲に従って眠ろう。

温かい部屋で、鳥の鳴き声と、犬の寝息を聞いて眠ろう。
ぼんやり目を覚しても、まだ午前中かと安心して夜まで眠ってしまおう。体全部が溶けて布団と一緒になってしまうまでそうしていよう。

すべてがどうでもいい、私以外は。

そうやって泥のように眠ろう。人の形を取り戻すのは、そのあとでいい。


柚香

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