【スクリャービン小品録】前奏曲 嬰ヘ長調 op.33-2

おすすめ度: ★(一聴の価値あり)
※満点は星3つ

中期がスタートした多作の年、1903年の作品。聴き流すとなんてことのないヒーリングミュージックのよう。しかし、繊細な転調の連続が醸す淡い陰影は、弾いて表現するにも聴取するにもかなり難儀します。このトリッキーな音運びは、ほとんど騙し絵を連想させるものです。
もし未聴で耳の自信がある方は、この曲の調がどのように遷移しているか、試聴して書き取ってみるのも面白いかもしれません。完全に当てた方はかなりの音感の持ち主だと思います。
私なりの解は楽曲分析の最後に譲るとして、もう一点、この曲には和声的に後期の語法の萌芽が見られることも先に述べておきます。つまり、スクリャービンの創作過程を考える上でも見逃せない小品なのです。

楽曲分析

※以下、m.は小節番号

まず全体を俯瞰します。大きくA(8小節)- B(12小節)- G.P.1小節 - コーダ(8小節)と分解できます。さらにAは、調性の異なる4小節の楽節2つ(a,a’)に分かれ、Bも6小節2つ(b,b’)に分かれます。bとb’は4の倍数でないため尻切れの印象があり、この曲の漠とした雰囲気をいっそう濃密にしています。

では詳しく見ていきましょう。始めは楽節aです。Fis durで、出だしからI(F#)のベースを省略して柔らかさを演出します。II(G#m7)と続いて、次はなんと、G#7-5(9, omit3)です。

冒頭 m.1-3

この仄かで効果的な和音、なるほど現代の我々からすると「まあそういうのもありだよね」という程度のものかも知れませんが、実際これをどう解釈すべきでしょう。一つ言えることは、スクリャービンはこの和音の解決を放棄していると言うことです(m.5以降はこの和音のことはお構いなしに楽節a’を歌い直しています)。スクリャービンは中期を進むにつれ、どんどん属和音の解決を巧みに聴き取りづらくしていきますが、これは初期段階の実作例と言えます。

もう一つ興味深いこととして、G#7-5(9, omit3)は後年の神秘和音の一部を成し、特に♭5はその特徴音とも言うべきもの。その不思議な響きに対し、謎は謎のまま残すという使用法まで後期の手法に一致しており、晩年に連なる彼の試行錯誤の一端がここに垣間見えます。

a’はD durでの反復ですが、先述の通り和声的な繋がりを無視して開始されます。長三度下という調選択の仄暗さはまた心憎い。

m.9より楽節bが始まりますが、ここから混沌を増します。まず私の聴感覚から述べると、aとほぼ同じような感触なのに、どこか妙に違う。例えるなら、周囲のものの形状がなにか異なるし、色彩もどことなくくすんでいるように思える。そんな「裏の世界」に飛び込んだような感覚があります。一体なにが起きているのでしょうか。

まずm.9〜はAes durなのですが、開始のフレーズこそm.1を模しながらも、aのFisをわずか半音落としたFからスタートしています。すなわち、ここで既に一種の「くすみ」が生じます。

しかも、m.9の属7 E♭はA♭へ素直に落ちてくれず、m.11ですぐに半音下のG durに移ります。この変化はほとんど気づかないほど自然ですね。

m.9-12

さらに、m.15にはFis durの属和音C#7が現れます(後述の通りこれは「表の世界に戻る抜け道」です)。
たった6小節でこれだけの陰影づけが為されるところに、この曲が簡単に内容をつかむことを許してくれない理由があります。奏者は木漏れ日のごときほのかな明暗の揺らぎを感じて聴者に伝えなければなりません。

スクリャービンのマジックはこれで終わりません。m.15からb’ですが、m.17では今度は転調せずAes durのまま通しにかかる。
つまり、ここに種明かしが生じます。実は聴者がなんとなく受け入れていたm.11は転調したG durの姿だったのだと。実は先ほどは裏の世界の中で「さらに裏の世界」をいつの間にか彷徨っていたのだと。

m.15-17 先ほどとの違いに注意


しかしここまで来ると明かされた種すらも感じ取ることは困難です。譜面を見ない聴取者側は「さっきよりどことなく明るい感じがするなあ」くらいに受け取ってもらえば十分でしょう。m.17では丁寧にこちらでもG durに下げています。柔らかな風が気まぐれに吹いてくるようです。

G.Pの後に来る m. 22の和音はC#7で、これはm.13で奏された和音と同じもの。ここでE7-5というm.7の和音に回帰し、これを今度は終止無しで終わるのではなく、F#aug7に読み替えてF#7-B7-F#のプラガル終止を成立させています。

と、いうわけで冒頭の答えは Fis dur(m.1-4) - D dur(5-8) - Aes dur(9-10) - G dur(11-12) - Fis dur(13-14) - Aes dur(15-18) - G dur(19-20) - Fis dur(22-29) のようになると思います(終止を放棄したm.3-4やm.7-8の調性を決定するのは難しいですが、m.24-25に従うならそれぞれA dur, Fis dur)。

演奏にあたり

重要なことはほぼ言い尽くしています。優美な演奏を心がけることは当然として、奏者は楽曲分析で述べた内容を掴んで明暗を表現する必要があります。m.15の標示などにヒントがあるほかは上記に示した通りですので、各々納得のいく演奏を追求しましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?