おじさんの極論化について
この頃、世のごく一部のおじさんたちの極論化が顕著な気がする。
極論の内容は特定の事象や思想に限らない。
Twitterをはじめとするネット上の言説には、さまざまな事象にたいしてさまざまな「おじさん構文」による極論があふれ返っている。
先日、読売新聞の人気連載、「人生案内」にこんな投稿が掲載された。相談内容のみ引用しよう。
ネット依存の夫 極論ばかり
50代のパート女性。同年代の夫がネット依存になっているようで、極論ばかり言うので困っています。
昨年、新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言が発令された際、夫は在宅勤務になりました。単身赴任なので、一人でネットを見る時間が増えてしまったのだと思います。私たち家族が気づかぬうちに、国際情勢や政治についてごく少数の批判的な極論をうのみにするようになっていました。
自宅に帰ってきても、家族と過ごす時間なのに特定の国々の批判ばかり。海外産品や製品にも文句をつけるのです。確かに、国際情勢や政治について考えることは大切だと思いますが、夫の意見はあまりにも偏っています。私も嫌な気持ちにしかなれませんが、子どもたちも父親を避けるようになってしまいました。
優しい夫を取り戻す方法はありませんか。心療内科を受診するのはどうでしょうか。
読売新聞,2021.08.24,人生案内より
うーむ、他人事とは思えない…。
近ごろわたしの父もまさにこんな感じ。
テレビのニュースがついてると、すぐ「○国は野蛮」だの、「×首相はバカで無能」だの、「△△宮は皇族とは認めない」だの、誹謗中傷すれすれ(というかアウト)のことばが次から次へと飛び出す始末で、聞き流すのも飽きてきた。
もともとその兆候はあったのだけれど、在宅勤務や外出自粛でネットニュースばかりみるようになってしまったことが拍車をかけた。
それも大手メディアの電子版や、いまやある種の「言論機関」と化した大手の週刊誌のウェブ版などではなく、煽り立てるような見出しの並ぶネットニュースサイトだ。
もちろん、メディアも完全な中立は不可能だ。メディア各社、それぞれのジャンルの得手不得手や言論の立ち位置が異なっているのは、もはや自明のこととなっている。
しかし我が父、そんなことはお構いなし。自分の信じたい情報を頼り、「敵」とみなせば攻撃する。
しかしだ。
ここで疑問に思うことが2点ある。
ひとつめはなぜ時間が生まれるとネットニュースに向かってしまうのかということ。
そしてふたつめは、なぜそのような情報を鵜呑みにしてしまうのかということだ。
誤解を恐れずに言うと、これは「おじさん」だからこその現象なのではないだろうか。
父はかつて、毎日欠かさず新聞を読む人だった。各社の社説を吟味しつつ、それぞれの「色」を認識してもいた。
それがいつの間にか、新聞に目を配らなくなった。
年齢を重ねたことで、集中力が続かなくなったのだろう。そしてなにより、自分の期待どおりに進まない世の中に腹を立てすぎてしまうがゆえに、「耳障り」のよい情報を求めてしまうようになった。
そう、この手のおじさんは若いときに比べて集中力が続かない。そのため、新聞や、大手メディアによる長文のウェブ記事を読むのがめんどくさくなっているのではないか。
在宅勤務などで空いた時間に、集中力のいる媒体よりも、サクッと読めてしまうネットニュースに行き着きがちになっているのはこのためだろう。
そして、おじさんだけあって、これまでの人生経験をもとにして固定観念、先入観、モデルストーリーともいうべきものが構築されているように見受けられる。
その観念を世の中の事象に対して当てはめることで、実態の吟味をすることなくジャッジを下していく。そして、そのジャッジを繰り返すことで、自説の信憑性をより自分なりに高めていく。
そのため、自説を揺るがすような言説よりも、自説を補強してくれるような内容の言説に飛びついてしまう。その言説の真偽は二の次なのだ。
自説の答え合わせ(その実は、自分にとっての模範解答以外は受け付けないというものなのだが)をしたことで自信を深めたおじさんたちは、それを惜しげもなく他者に披露する方向へと走り出す。
その結果が、冒頭に引用した「人生案内」における夫の言動、そしてわたしの父の言動のようなものなのだと考えられる。
以上をまとめると、
①人生経験の豊富化による先入観の醸成
↓
②年齢による身体的な衰えの増大
↓
③従来備えていた情報収集力が低下
↓
④手近なメディアへのアクセス
↓
⑤在宅勤務や外出自粛でアクセス機会が増加
↓
⑥自説の補強により自信を強めて過激化
↓
⑦他者へ披露する欲求の高まり
↓
⑧極論の大々的な展開
ということになる。なかなかたいへんだ。
察するに、これと近い現象は全国各地、かなりのご家庭で生じている気がする。単なる性格の問題ではなく、身体的な衰えが起因しているためだ。
そして、単なる極論ではなく、他者の否定が多分に含まれがちなのは、そうでもしないと自己が維持できないという哀しい境遇にさいなまれているからなのかもしれない。
他者の否定はめぐりめぐって、他者にとっての他者である自分の否定につながる。ものすごく当たり前のことなんだけど、意外と忘れがち。
声を大にして唱えていきたい。
まぁとはいえわたしも、世代別に選挙を独立させるとか、感染対策守れない場合には医療費を10割負担させるとか、婚姻という制度そのものなくてもいいのでは?とか極論じみたこと思っているひとなので、あまり人のこと言えたわけではないのですが……。
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