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生き様を刻む皺

その先生は恐らく三十代後半だった
歳の割には皺が目立ち、センター分けの前髪にはちらほらと白髪があった
だが目元だけは少年のようにキラキラしていた

いつもなぜかくたびれた真っ白いシャツを着、授業が始まる数分前に教室に入ってきて、チャイムが鳴るまで本を読んでいた

受験のための現代文の授業、というより文学博士の脳内のロジックツリーをひたすら見せられる授業、という感じだった

予備校の先生の授業、というより博士の独り言

授業で扱う文章の人名は必ず解説し、また文章の内容から派生して様々なジャンルの話をするが、気づくと全く関係ない話をしている

数分前まで確かに授業の解説をしていたはずが、気づくとアラビア語の話をしている
黒板にラテン語の活用表を書いている
井筒俊彦と鈴木孝夫の話をしている
みつをの詩を「安っぽいヒューマニズム」と批評し、『あの夏、いちばん静かな海。』はたけしの才能が光っていて全体的に素晴らしいが久石譲の音楽だけは嫌いだと辛口なコメントをしている(ちなみに先生は何度も見てセリフは覚えているので音量をゼロにして見ているらしい)

上の例だとあまり伝わらないかもしれないが、解説をする時の先生の知識量はすごかった
ただ、正直浪人生の授業には向いていなかった

浪人生はなにかと「効率」を重視する
効率よく勉強していないように思える人に限って効率、効率、と魔法の呪文のように唱える

先生の授業の雑談を「あんなのは受験に役に立たない」とかなんとか言って授業を切る人がだんだん増えていった
私にとっては、自分の知らないことをたくさん知れる楽しい授業だったのに

私は葉桜の季節に一度だけ先生に質問しにいったことがある
怖そうだと思ってビクビクしていったら、思ったよりも気さくな人だった

初夏の授業で、先生は須賀敦子さんが好きだと言って、『ミラノ 霧の風景』を紹介した
その頃にはすっかり先生の授業の虜になっていた私は、先生の思考回路が少しでもわかるのではないかと思ってすぐに近所の図書館でその本を借りて読んだ

この本は作者の、ミラノの人との優しくそして時に切ない思い出が、優しく美しい文章で、ゆったりと流れる川のように綴られている

たくさんの友人との出会い、そして別れ
行ったこともないミラノの霧のかかった風景が、目を閉じればそこに浮かぶ
なんとも美しい本だった

この本はなんだか別れや死が多かった記憶があるが、須賀敦子さんもこの本を出版した数年後、癌で亡くなっているそうだ

この本を読みながら私は、先生は美しい世界が好きなあまり、自分の感性に合わない世界がとことん嫌に感じてしまうのかな、などと勝手に考えた

須賀敦子さんの世界観にすっかりハマった私は、今、全集を少しずつ買い集めている

先に生きる、で先生

確かに予備校の先生の授業らしさはないけれど、授業によって生徒に新たなことに興味を持たせるという点では先生は誰よりも先生らしかった

先生の、歳の割に多い皺は深く広く、同年代よりもはるかに膨大な量の知識を得てきた証のように思われた

この文章にオチは特にない
特にお世話になった先生の何人かには合格報告に行ったが、この先生にはまだ合格報告をしていないしこれからする気もない

ただ、コロナ禍で先生の価値観が問われている今、ふとこの先生を思い出した

真面目な授業をただするだけなのが先生なのだろうか


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