現代麻雀技術論註第24回「手役を狙う場合も距離、傾斜、速度を考慮する」

 三色は手役の華と言われた時期もありましたが、昨今では「麻雀に三色はない」という言葉も聞きます。しかし、意見が分かれそうな何切る問題を出題していると必然的に三色同順絡みの問題が増えてしまうもの。しかも、三色を完全に見切ることは少なく、むしろ積極的に狙う方がよいという結論になることさえあります。

 三色狙いにこだわるのは古い麻雀と見られがちですが、そもそも麻雀の歴史からみれば、三色同順は比較的新しい役。麻雀にリーチが導入された1952年以前の麻雀は、一通やホンイツ、トイトイはあっても三色は存在しませんでした。

 リーチ麻雀が普及する過程でドラが導入され、ドラによってアガリ点が高くなるにつれて手役の数も増え、翻数も上方修正されました。しかしまだ一発や裏ドラが普及していなかった時代。2翻役の中では一通やトイトイに比べれば三色同順は作りやすいうえに、少し前までは採用すらされていなかった手役。当時の麻雀打ちに、「三色は手役の華」と持て囃されたのはむしろ自然なことではないでしょうか。

 それからルールのインフレ化でドラが増え、三色の価値は相対的に低くなりました(更に言えば、ホンイツはある時期を境にメンゼン2翻から3翻に再度上方修正されたので、手役の価値が相対的に低くなった現在主流の麻雀ルールにおいても重要な位置を占めるようになりました)。

 ここまではよく言われる話ですが、今回着目したいのは、従来の戦術論の問題点は手役狙いそのものというよりは、手役にこだわるあまり、手役完成までの「距離」ないし、「傾斜」「速度」が意識されてこなかったということです。

 「ここから三色を狙うのは遅い」と聞くと、平和テンパイだけどメンツがスライドすると三色に手変わりする程度のものをイメージしがちです。しかし、文字通りの意味で昭和の麻雀本には、アガリに結構近く、ピンズが1枚も無い手牌から、ピンズをツモった時の三色を意識せよといった、「見ている三色を追う」のではなく、「見えないところに三色を見出す」 。昨今の戦術書で学ばれた方が見たらきっと腰を抜かすであろう「遠い三色狙い」が多々見られます。

 手役つきのアガリを目指す場合も、手役を完成させたうえでアガるまでに何手かかるのかという、「距離」を数値で表現するようにしましょう。例えばアガリまで2手(1シャンテン)の手牌で、手変わりせずとも三色のアガリになる可能性がある場合は三色(2)と表記します。メンツのスライドが1回必要な場合は三色(3)。ピンズの浮き牌をツモり、その牌にくっついてようやく三色のターツが揃うのであれば、三色(4)。アガリまでの手数より何手もかかる手役については、手役を狙うメリットが薄いということが分かります(手役関係なくアガリまでの最短距離を示す場合は、和了(N)のように表記することにします。)。

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 例えばこの手牌。打ち手の方は三色を意識されたようですが、最短は七対子があるので和了(3)。三色(5)ですが、役牌(4)、対々(5)、混一(6)、混老(6)でもあります。

 七対子は別としても、「距離」だけなら三色も他の手役に劣らないのですが、三色は特定の牌を引かなければ完成しません。一方、対々は新しくトイツができる牌を引けば、混一は字牌か一色の数牌を引けば、混老はヤオチュウ牌を引くだけでも距離が近づきます。手が進む牌が多いのですから、「速度」面で三色に勝っていると言えます。

 更に言えば、対々や混一は他家からポンしやすいヤオチュウ牌を鳴いて手を進めることができるうえに、テンパイした時も他家が使いづらい待ちを残しやすいのですから、「傾斜」においても他の手役に勝ると言えます。七対は距離こそ近いとはいえ、トイツを作ることでしか手が進まず、テンパイした場合も必ず単騎待ちなので傾斜、速度では劣ります。ここからポンすると和了(4)となり距離だけ見れば和了に遠ざかっているのですが、傾斜でここまで差がつくのであれば鳴いて手を進めた方がよいと言えるのではないでしょうか。

 このあたりは麻雀を打ち慣れている人にとっては直感的に処理できることだと思います。しかしそのため説明する際も抽象的な記述が多くなりがちだったので、「手組を数字で表す」一環としてまとめてみることにいたしました。

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