新麻雀徒然草第7回「麻雀に一貫性は必要か?」

 この話は10年以上前に取り上げているのであえて触れることもありませんが、「一貫性のある打牌」とは何かで定義するなら、「その打牌が正着だと仮定すると、それ以前の打牌も正着である可能性がある打牌」となるでしょうか。

 何ともややこしい言い回しになってしまいましたが、要は一貫性のない打牌、「その打牌が正着だと仮定すると、それ以前のどこかで必ず誤打があることになる打牌」の逆。つまり一貫性のない打牌とは、自分がミスをしていたことを認める打牌とも言い換えられます。

 将棋棋士の発言をまとめた書籍で、畠山鎮八段の「手の流れからこの手は指せない」。その次のページに久保利明九段の「点で考える」という言葉が紹介されていました。一貫性という言葉を用いるなら、前者は「一貫性の無い手は指せない」後者は「一貫性は不要」となるでしょう。本書は両論併記という形で取り上げられていましたが、私はやはり後者の立場を取りたいと考えます。

 しかし、「一貫性の無い手は指せない」。この感覚自体は麻雀を打っていても痛いほどよく分かります。自分のミスを認めたくない感情というよりは、分かっていても手が動かず、無意識のうちに当初の方針に引っ張られてしまうのです。

 正着を打ち続けているのであれば、その打牌は必然的に一貫性のある打牌になります。その打牌もしくはそれ以前の打牌が誤打であることが確定するのが、「一貫性のない打牌」。誤打が多ければ多いほど、「一貫性のない打牌」が多くなります。実力に劣る多くの打ち手は確かに「一貫性のない打牌」が多いのですから、「一貫性を大事にせよ」という実力者が多いのも無理はありません。

 しかし、「その打牌が正着だと仮定すると、それ以前の打牌も正着である可能性がある打牌」というのは、裏を返せば、「それ以前の打牌に誤打があると仮定すると、その打牌も誤打になりかねない打牌」ということ。誤打が多い人程、一貫性にこだわればなおさら誤打が増えてしまいます。言葉を尽くして説明するのは難しいから、「一貫性」という言葉で説明されるのは分からなくもありませんが、少なくとも麻雀の実力向上を目的とする人へのアドバイスとしては適切ではないでしょう。

 久保九段は「点で考える」と言われましたが、私が一言付け足すなら、「線で把握して点で考える」となりますでしょうか。「一貫性の無い誤打」の原因は、局面を線で把握できていないので、打牌方針が行き当たりばったりになってしまうためです。しかし、「一貫性があるだけの誤打」の原因はまさに、それまでの過程に影響されて、「点で考える」ことができていない為。正着を打てるだけの能力を養うためには、「線で把握できるようになる」ことは必須ですが、実際に正着を打つために必要なのはあくまで「点で考える」ことです。

 「麻雀に一貫性は必要か?」これに対して今の私なら、「いいえ、不要です。しかし、強い打ち手を目指す過程で自然と身に付いてしまうものでもある。」と答えます。一貫性そのものは正着を選ぶうえで足枷になりかねないので、最初から『一貫性は不要』と言い切れるだけの麻雀講座を著せればいいですね。

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