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サナトリウム_スケッチ

 こんなにも混乱と平穏のまどろみの世の中に精神病院なんてものが存在していて、ましてそんな所に入院している人がいるだなんてどうにも不思議な話である。それでも僕と彼女はそこにいて、まして入院までしていた。

 その言葉を彼女が口にしたのは僕の問いに応えてのことで、差し支えなければ、というじりじりとした前置きをした上で僕は聞いた。

「どうしてここに入院してるの?」

 彼女は答えた。

「希死念慮です」

 僕にはそれが何語なのかすぐにはわからず、kishi-nenryoからひらがなを辿ってやっと熟語に思い当たった。希死念慮。

「憧れなんです」と彼女。
「憧れ」と僕。

 彼女の丁寧に切りそろえられた髪の毛先がすうっと揺れる。かすかに頷いているようだった。

(この人は死に憧れているのだ)と僕が理解した時には、もうすでに彼女は別の存在になってしまっていて、毛先が揺れることもなく、その透明な瞳は静かに手元を見つめていた。彼女の華奢な体からひっそりと伸びた先の両の手首と甲は丁寧にテーピングされていた。彼女の両の足は車椅子という空間の中であまりにも大きな余白をつくりながらただ静かにそこにあった。

(死に憧れる人)

 それはいつかの僕自身でもあった。そんな哀しい人がいつかの僕の心の中だけでなく、目の前のこの女の子の心にも存在しているらしいということが僕にはすごく寂しく思われた。それはもしかしたら僕の勘違いかもしれなかった。それならそれでよかった。もしかしたらその人は誰の心の中にもいるのかもしれなかった。けれどそれは決してわからない。他者の心は決してわからない。自分の心だって、結局はよくわからない。

(わからないことを知りたいと思う気持ちはどこから来るのだろう。ついぞわからないことが決まっていて、それでも)

 彼女は僕より十一も歳下で、それなのにもう永遠を手にしてしまったような静かな話し方をした。好きな絵や音楽の話になるとすごく嬉しそうに話した。多分、というよりも事実として、彼女が死ななくちゃならない理由はこの世界のどこにだってあり得ないと思えた。例えそれがあまりにも個人的な、それでも全世界に匹敵する悩ましげな抵抗であったとしても。

(2022.4.18)

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