人の大事な時に頑張ってしか言えなかった時、私はその人と他人であることを痛いほど感じた

私はこの前、久しぶりに美容室へ行った。いつも指名していた美容師さんが長い休みを取っていたので、以前一度だけ担当してもらった美容師さんを指名して、髪を切ってもらった。明るくて、もしもクラスメイトだったら絶対に友達になっていなかっただろうな、というタイプの人。(まあでも美容師さんはそういうタイプの人がほとんどだ。でもみんなめちゃくちゃ優しい。無敵。)髪を切っている間、たわいもない話をした。最近どうしてる?大学はどうなっているの?などなど。私はあまり話をするのが得意ではないので、一言二言話して、話が終わっていった。そうしてあらかた切り終わった後、話題作りと、本当に知りたかったというのもあって、髪の巻き方や、おくれ毛の出し方などを尋ねた。そうするとその人は実際に私の髪を巻きながら、こういう巻き方で、とか、髪の毛はこのくらい出して、とか、もうそれは親切丁寧に教えてくれた。その時クーポン割引を使っていたので、少し申し訳なくなった。そうしてすべて終わってお会計をするときに、その人は、この美容室を来月でやめると言った。ブライダルの方のヘアメイクに興味があって、そのことも学べるところへ行くそうだ。私は相槌のかわりに、「更なる飛躍ですね」と呟くと、その人は「そんなに大層なものじゃないけどね。」と言って笑った。私は、それから次の引継ぎのことなど、何か言われるたびに、「はい!頑張ってください!」「分かりました。頑張ってください!」などど、怒涛の頑張ってくださいラッシュを繰り返していた。少しウザいと思われたかもしれない。そして最後美容室からお見送りしてもらうときも、「頑張ってください!」と言って別れた。

その時は、突然のことで頑張ってくださいとしか言えなかったけれど、家に帰ってから、せめて「応援してます!」も添えればよかったかもしれないなあなんて一人反省会をした。そして、私は何だか少し悲しくなっている自分に気づいた。ただ二回髪を切ってもらっただけの、ほぼ他人なのに。なんだか、ほとんど足を踏み入れたことのないお店が、閉店すると知った時のようだ。急に名残惜しくなる。あの時親切丁寧に教えてくれたのも、元から親切だったというのはあるだろうけれど、もしかしたらもうこれが最後だからという意識があったからなのかもしれない。そして、私が「頑張って」しか言えなかったのは、ほぼ他人だからだったのかもしれないと思った。もし仮に私がその人に毎回指名していたら、「いつも髪を切ってもらっていたのに、寂しいです。」とか言えたかもしれないのに。もし仮に私がその人の友人であれば、「確かにずっとブライダル系のヘアメイクしてみたいって言ってたもんね。」とか言えたかもしれないのに。私は、その人がそのことを言うまで、やめることを知らなかった。その人との思い出もほとんどなかった。だからこそ、「頑張ってください。」に付け加える言葉が思い浮かばなかった。思い出や、その人がその決断に至るまでの経緯、つまり「+αの情報」を知っておけば、その次の言葉が見つかったはずだった。私は、応援したい気持ちがあるのに、もっと別の言葉をかけられたらかけるのに、結局他に何も言えずに、ただ「頑張ってください。」を繰り返す自分が歯がゆかった。だからと言って、ほぼ赤の他人である人間から、ちょっとした言葉を貰ったところで、特に何も思わないかもしれないけれど。私は、ただ美容室に行きたかった日に、その人の予定が空いてなかったという理由で、私は別の人を指名し、その人にいつも髪を切ってもらうようになった。そういうものなのだと思う。選択するというのは、日常を重ねていくというのは、そういった些細なきっかけで、知らない間に駒を進めていくということだと感じる。

これはすごく小さな話だ。ただ二回ほど指名した人が、美容室をやめるというだけのこと。それなのに私は、仰々しく人生まで語りだしている。大げさだ。でも、その人には頑張ってほしいなあと思う。これがはなむけだ。

でもほとんど他人なのに、こんな長ったらしい文章を書かれているなんて知ったら、すごく気持ち悪がられそうだ。どうしよう。

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