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悩むってことは生きてるってことだろ

 使わせていただいた猫ちゃんたち最高に可愛いし、撮影したkanakoozekiさんありがとう。この写真大好き。以下本文

 エモいお菓子屋さんと名乗るようになった。なんとなくしっくりくる名前だと思ったからだ。でも、『エモい』ってなんだろうと改めて思った。大学生で軽音楽サークルに入っている時に初めてエモいという言葉を使った気がする。
 当時を振り返ってみると「ライブをして、ライブを観て、心が動いた気がする。感動した。気持ち良い。」みたいな意味で使っていたと思うし、今もそういう意味で使っている。だからといってみんながみんな同じ意味を使う必要がないのだろうなと思う。

 そもそも感情とか、感想とかを文章や言葉にすることが僕は苦手だったし、うまく伝えることができなかった。今もできているとは思っていないけど。そして何より、僕が感じたその「エモさ」を伝えた後に何を求めているんだろう、自分の100%を説明できたとして、受け取ってもらえる「エモさ」は何%なのだろう。自分が好きだと思うことや、興味があることを否定されたら辛いし、嫌だな。適当に相槌を打たれるのも嫌だな。そう思うと自分の感情を伝えることに対して興味が薄くなっていった。

 その結果、人間関係は表面的で薄いものばかりになり、ただ日常が続いていく毎日が続いた。それはかなりつまらなかった。

 ここで話を仏教の話に変える。仏教の考え方で「苦しみ」の原因の一つは「こだわること」という考え方がある。何かに固執することは「苦しみ」や「悩み」を生む。例えば「愛すること」「好きになること」も「苦しみ」で愛別離苦と呼ばれている。大切な人や恋人、子供、家族ができると喜びや嬉しさの反面、失った時の苦しみや喪失感に悩まされるから「こだわらない」ことでその苦しみは無くなる。という考え方。正論だと思うけど、僕はなんか違うって思ってる。

 それは、何にもこだわらないってことは苦しまなくてもいいかもしれないけど、嬉しさも感じないってことだと思っているから。僕は生きている間は嬉しいことをたくさん感じていたい。でも、苦しい気持ちはあまり感じたくないと思っていた。
だから、自分の好きなことを話した時に否定されると苦しい気持ちになるから伝えることはしなかった。その結果が嬉しさを少なくすることにも繋がっている気がする。でも、好きなことを話すことが嬉しいのではなくて、好きなことを持つことが嬉しい。じゃあそれは伝えなくてもいいじゃない自分の中にだけ収めておけばいいじゃない。となる。

 とするとやっぱり好きなことを持ったら伝えることが嬉しいことに繋がるんだろうな。共感してくれる人がいたら嬉しいけど、全く同じ気持ちじゃなくてもいいんだ。それについて一緒に話ができればいいんだ。人と話すことが好きだ。

ってなる。

以下ただのメモ。今までもメモみたいなものなんだけど、読んでる人にわかるようにとか、因果関係がわかるようにって思って書き始めたのだけど、だんだんめんどくさくなってきてしまったからやめて思ったことを思ったまま書くし、わかるようにとか何も考えすに書くよごめんね。

書いていてこれをもっとわかりやすく文章にできたらもしかしたら観てくれた人のうちの誰かの悩みを解決できるかもしれないって思ったんだけど、
やっぱり文章を構成するのが難しい。下書きしてなにを書くか決めるよりも、書きながら出てきた言葉や感情をそのまま書いてしまいたい。

音声でのアウトプットは頭の中で思考をしているスピードより、文章にするよりも遅くなるから違う気がするし、やっぱり会話をしながら考えていることを発信していくことが僕はやりやすいのかもしれない。
文章を書くことは自分と自分の会話みたいなものだから、まだできる。
でも最初に書いたことと、後で書いた内容につながりがなかったり、論理的に構成することがめんどくさい。頭の中でやるだけであれば因果関係は言葉にしなくても感覚的にわかるから訂正する必要もないし。

だから伝えるって難しいし、それができる人はすごいって思う。
でも僕は伝えられる側として、相手が伝えようとしていることの何%を理解できているんだろう。って不安になった。僕が思っていた不安を同じように思っている人がいたらそれは辛いことだ。

だから、伝えられる人にもなりたいし、伝わりやすい人でもありたい。
内容はもちろん僕が興味があることや興味がある人や好きな人たちの言葉や考え方でいっぱいであることが重要だ。
それ以外は気づけたらいいなくらいでいいと思う。じゃないと本当に大切なものに使う時間がなくなっちゃってもったいないから。

終わり



 

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