枠(わく)って、何だろうか?

枠って何だろうか?

固定観念とも言う。
偏見とも言う。
過程の教育も枠。
地域の雰囲気や文化も枠。
女性や男性という性別も枠だなぁ…。
カテゴライズ、枠(わく)。日本人大好きですよね。


もちろん、全部悪いこととは思ってない。


枠が無ければ無秩序で、使い分けや言い分けることができないし、
人間の文化的に不便すぎる。
枠(カテゴライズ)が面白いこともある。

動物図鑑だとか、サッカーのそれぞれのチームだったりとか。
だけど、使い方を間違えると苦しむことになる。


自分にかける呪いのような枠(わく)
それから、最近の日本の風潮である枠(わく)


学校や会社、常識と呼ばれるもの。
人が評価される公の場。


今は結構偏りがあると思う。
それが世のせいと言えばそれはそうなのだが、
自分がそれに合わせて苦しむのは、おかしいと思っている。

おかしい、という表現は変かな。

「私は女だからここは出すぎないようにしよう」
「僕は真面目なんだからこんな事をしたら変だ」
「自分は能力的にも資格的にもこれしかないから、ここまでの人間だ」
「地域や周りの人もこの程度だから合わせないと変に思われるからこれはやめよう・・・」

とかとか。
心当たり、ありますよね。
私もあります。

今の日本には仕方ないけど、自分は変えられる。
それに、自分が変われば変えたい人が集まって、
世の中が変わるかもしれない。

そして、それが世の習いなのだろう。
そうして変わっていくのだと思う。

常識って、けっこう今までの誰かがそれっぽく言ったのが、
広くそう思う人がいるというだけであって
絶対的なものではない。

誰かを貶めたり、けなしたり、傷つけたりする人道から外れる内容は除外するとして、私たちは“過去”多くの人が語り継いだ常識を
心の中で「自分はどうかな?」
と、考えなければならない。時代も歴史も人間も環境も、みんな変わるから。
そしてそれが、地球上で唯一意識的に思考し、夢を見る動物「人間」である特徴であり、発展に繋がる神聖な秘儀なのかもしれない。

とりあえず、
小難しい私の思考を置いておくと


人間は一人一人違う。それは、至極当たり前である。


同じ人間がいたらそれは恐怖だ。と、いうより、遺伝子・細胞レベルで無理だ。
と、言うことは人の数だけ“正解がある”ということだ。

誰一人同じ正解がないなら、それを正解だと言うのはなかなか心細いが、
その中のどれかは発信すれば共感してくれる人がいる。
そして、「違ってていいんだ」「違うのは当たり前なんだ」と、
他人の世界を楽しんだ方がいい。

皆違うのが当たり前なら、その人の中の宇宙の1つ1つの惑星を
手に取ってじっと眺めたりしてもいいだろう。
色んな形のいろんな色にきっと魅せられる。

そして、それはあなたも持っていて誰かがあなたの宇宙をじっと見て
「大変面白い世界をお持ちだ」
と、微笑んでくれる。

そんな人が、世界には2:8の法則で存在している。必ず。


1人だけ、誰かが分かってくれるというだけでも、十分恵まれた幸せなことなんだけどね。


誰かが名前を呼んでくれるだけで、本当は存在を認めてくれる人が世界にいるってことでありがたい。
それは私の持論というか、大切にしていること。

話はそれたけど。
自分が大好きなことをしよう。
夢中になって、もっと知りたくなることをしよう。


それが、あなたの宇宙なのです。


あ、でも人としての生活は疎かにしないように(笑)

ご興味頂きましてありがとうございます。書き始めたきっかけは、自分のように海の底、深海のような場所で一筋の光も見えない方のために何かしたいと、一房の藁になりたいと書き始めたのがきっかけでした。これからもそんな一筋の光、一房の藁であり続けたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。