漫然とそこにある一つの希望


人間はいつかは死ぬもので、その死に場所と時期は大抵の場合選べないものである
それは誰にも平等で、突然訪れるものである
病気だろうと、事故だろうと、老衰だろうと
自殺だろうと。

この世に産まれてから人の死に直接かかわったのは中学生の時に義母が自殺、高校生の時に祖母が病死、中学生の時の彼女が他殺
それと大人になってから知り合いの自殺
それほど葬式とかにも出席したこともないし、案外少ないのかもしれないとか思っている
だから知った風な事を書くかもしれないなとか思いながらぐちゃぐちゃな頭の中を整理するためにこの文章は書かれている

最初に死に場所と時間は選べないと書いておきながら自殺の話をするのはどうなのか、と思う人もいるかもしれないが
概ね自殺というものは突発的で計画性もなく、そこに死ぬための理由もないと思っている
中学生の頃自宅で自殺した義母は本当に突然死を選んだ
兆候はたくさんあったけれど、特に計画性も理由もなかったように思える
義母の自殺で向こうの親戚達には罵詈雑言を浴び、親が死んで泣かない子供はおかしいなども言われたが、まあ自分が同じ立場なら言うかもしれないなと今では思う
それでも当時はとても嫌だったし、なんだかんだ私は風呂場で一人泣いたりしてたし、それなりにダメージは負っていた訳で
学業にも身が入らなくなり優秀だった成績は地に落ち、自殺した義母を恨んだこともあった
なんならずっと恨んでいた

世の中簡単に「しにたい」といい手首に傷を作る人種がいる。理解はできないし、愚かだとも思っている
二十そこらの時に知り合いがリストカットをしていたときも私は「そんなことをするやつは愚かで、バカだ」と言った
私はその人が好きだったので心配をさせて君がいつか死んで、その時止めようともしなかった自分を私が許せるか分からない。とかなんだかアニメみたいなセリフを言っていた気がする
義母の自殺も実際止めることができたのは私だけだったから
後悔もあったのかもしれない
20年以上経ってから父親に初めてこの話をしたとき、中学生に何ができた。お前は悪くないと月並みの言葉をかけられたが、それでも深く残っている

私は、10年前なんのきっかけもなしに首を吊った
準備も杜撰で、夜勤が終わっていつものように帰ってきてお酒を飲みながらネクタイで首を吊った
偶然にも鳴った携帯に返信をしながら今死ぬので、といい残し世界は真っ暗になっていた
皮肉にもその時の着信相手は手ひどく振ってしまったこの人生の中で一番愛した女性だった

次に目が覚めたときは自宅の床の上で、警察に囲まれていて
救急隊員もきていた、通話相手の女性もその父親と来ていた
偶然に来た着信で死ぬことを伝えて、驚いた女性が通報して警官が窓から入ったそうだ
救急車にのせられているときに縁を切ったはずの親戚が来ていて何か話した記憶がある
次に目が覚めたのは大きな病院のベッドの上、記憶があいまいである
医者らしき人に入院しないといけないと言われたが、稼ぎは悪かったのと、うさぎを2羽飼っていたので断った
叔父の家に引き取るという話も出たが、正直嫌いな人間だったので断った
まあ、その時の話は今回関係がないので省略する

私は理由もわからないまま、何も考えずに自殺したので周囲に聴かれても答える事も出来ず、ただケロッと元気に過ごしていた
まあ仕事は失ったし、自殺企図したのが舞台の本番2週前だったのでその本番が終えた後、私は舞台俳優としても事故物件として声がかからなくなっていた
病院に通うことになり、とてもつよい睡眠薬を飲まないと眠れなくなっていて、それでも失業保険を貰いながら職業訓練校にも通い、資格も取った
我ながら頑張っていたと思う

それでもある日、私はまた死のうとするのである
理由なんてなかった。昼食のあと、寝室に行き、強すぎて朝起きれないために飲んでいなかった睡眠薬を引っ張り出し、それを全部コピー用紙の上にのせ一気に全部飲んだ
その時飲んだ薬はイソミタールとブロバリンの混合粉末薬で所謂「イソブロ」と呼ばれるものだった(恐らく今は処方されない、但し入院中なら管理下の元処方されるかも)
いちばんの特徴がその薬の致死量の少なさであった
48日分で人が2回は死ねる量だった記憶がある
人生2度目の死だった

早期に発見された首吊りではそれほど後遺症もなかったが流石にこの時は大変だったらしく、叔母が偶然起こしに来て、起きないからとひっぱたいていたのに一向に目覚めないことで救急が呼ばれたそうだ
それでも目覚めたときは全身チューブでおむつも履いていた
起きた瞬間鼻から水を流し込まれながら歯磨きされてたのは覚えてる、あれは何だったんだろう
尿道カテーテルを抜かれるのがとてつもなく痛かったのも覚えてる
そして日付を聞くと3日以上経っていた
私はまた死に損なったと泣いた

1度目も泣いたし、2度目も泣いた
親族の中では「安心したのだろう」ということになっているが
私的には「失敗した」という感情なのだ
そのころには死ぬことは救いになっていた
仕事も舞台も失って、趣味も何もかも失って、死のうとした人間がこれから生きていくなんて無理だった
思えば自殺した義母がうらやましかったのかもしれない

それでも私を担当していた主治医は私に「生きる事が仕事だ」と強く言った
私の話はなんでも聞いてくれたし、返答も優しくなく、正確だった
時には衝突することもあり、診察を拒否していた時期もあった
医療保護入院なのでまあ診察を受けて親族の同意がないと退院はできないので結局しぶしぶ診察を受けに行くのだが、言い合ってさんざん罵倒した私を責めることなくいつも通り話をしてくれた
私の病状に一切の理解を持たない親族との面談にもソーシャルワーカーと別に忙しい身でありながら常に付き添ってくれて、私の側に立って話をしてくれていた
入院中叔父のいやがらせが多岐に渡ってあったとしてもそれも全てキッパリと叔父に対して間違いだとも言ってくれた

ようやく本題になるが、先月その主治医が病院を辞めたのだ
86歳という年齢でいながらずっと医者として働き患者のためにそれぞれ対応を変え、入院中や退院してからも沢山の本を私に買い与えて感想文を書かされたりもした
死んだわたしを生き返らせるのに尽力してくれていた
私はあの日死んで入院中、退院後も主治医と会話をしていくうちに過去も何もかも清算していった
古い私は消えていき、新しい私として産まれたのだ
それを9年もの間支えてくれた主治医はいわば新しい私の父親のような存在であった
最後の診察の日、互いに別れの言葉はなかった。主治医も辞める話はしなかった
それが彼なりの愛情だったのかもしれない、私は私で新しい道を歩んでいかなければならない
そう思っていたのに、やはり彼がいない病院はなんだか何も得られない感覚で
彼がいない病院に行く意味も分からなくなっていた
同時に抑えていたなにかが決壊し、今、こうして生きている意味すら分からなくなっていた
私は主治医が生きてほしいと本気で思ってくれたから生きてこられたのだなと気が付いていた

どうしようもなく子供で、どうしようもなくこの世が嫌いで、どうしようもなく自分が嫌いで、どうしようもなくさっさと終わらせたい

ここ数日、現実がなんだか解像度の高い夢のような感覚でしかなくて
こうして文章を打ってるいまもなんだか現実の解像度か低くて
私は何のために生きているのか分からなくて
何のために頑張るのかも分からない
自分ですべきことを見つけられず、やらなければいけないことも出来ず
ずっと赤ん坊のような自分がいて
だけどきっとそれが本当の私で
すぐ泣いて、すぐ怒って、それを後悔して落ち込んで
私はやっぱり私が嫌いで

長々と書いて来たけれど
言いたいことは短い

もう流石に終わらせたい
今すぐにでも死んでしまいたい

それだけなのである


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