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猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 ある方の書評で激賞されていた。それを読む前に読んでいたので、そうかこれが分からない私が阿呆なんだとは思ったのだが、打ちのめされるほどの感激は実は感じなかったのだ。

「君が異端だった頃」島田雅彦著

何に惹かれて手に取ったのかは明白で、異端の文字なのだ。1961年生まれというから、まだまだ自伝を書く年齢でもないような気がしたが、島田雅彦の鮮烈デビューを知っているものとしてはもはや彼すらが自伝に取り組むという歴史に時は矢のように過ぎるのは事実なのだという感慨を新たにした。外語のロシア語科在学中の「優しいサヨクのための嬉遊曲」は83年だったそうだが、政治の季節が消え去った時に左翼がサヨクと書かれたことになんだか世の中秋風が吹いたような気がしたのを思い出す。そしてその島田が何度もなんども芥川賞に落ち、その内実も書かれている。

 本書は自伝的青春私小説と銘打たれているが、島田は君として第三者の視点が導入され、作家となる頃からはそれが島田雅彦となったり、また君になったりという視点の揺らぎをもたせているが、特に違和感は感じなかった。 

 本書は作家になろうと決めた青春の右往左往が描かれているが、何か足りないなーという気がしたのは、つまりそれは島田の世代の特色で、政治の季節の苦闘がまるで周辺に見えないという点なんだろう。同時代性というものが読むもののどこか固まってしまった精神に触れる時の甘美な痛みが、どうしても欲しくなるのは読者の傲慢だとは思う。島田が作家として走り始めてからのいわゆる先輩作家たちとのやりとり。特に中上健次には憎まれながら実はもっとも愛されていたという点に島田の自負はあるようだ。そして埴谷雄高にも島田はいわば異端の系譜を託されたようだ。

 なんとなく違和感として残るのは、私は島田は独身だとばかり思っていた。しかし学生時代の仲間でもある女性と20台で結婚し、子供もいて、そして、危うい浮気もしていたという。それはそれで、大した問題ではないのだが、読み終わっても、青春のひりつくような痛みも作家としてのあがきもなんだかまるで読み取れない。サラサラ小川が流れるようなそんな作家の自叙伝なのであるが、激賞されているのはなんでだのか、私は自分の愚かさを自己確認している。

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