猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

世界を覆い尽くす新自由主義の世界にどう対峙すべきなのか悩む日々に、思いがけず、これだという本に出くわした。

「民主主義の非西洋起源について 「あいだ」の空間の民主主義」デヴィッド・グレーバー著 片岡大右訳

 ズバリ言って、アナキズム復権の本と言っていいと思う。私自身アナキストを自称しているが、実は現代に通用するものとして提示できる理論が見当たらない。いわば古くからのアナキズムを振りかざすことに悲しみを覚えていたわけである。グレーバーは「自己組織化、自発的結社 相互扶助、国家権力の拒否はアナキズムの伝統に由来する。ところが、今日これらの発想を受け入れている人々の多くは、自分たちをアナキストと呼ぶことに乗り気ではないか、必死で拒否している。(まさに私はそうだ)」そして彼は「実はアナキズムと民主主義は概ね同じものであるとーーあるいはそうあるべきだとーー主張する」と。これを証明するために本書は書かれている。

 民主主義といえば全世界的な確立された正義のように語られ、その系譜を歴史的にギリシア、ローマに依拠していると学ばされてきた。しかしこれは本当にそうなのか?いわゆる西洋文明というのは唯一のものではなく古代ギリシアで構想された一連の観念が書物や研究を通じて西側へ流れたものがせいぜい今から100年か200年前に太平洋沿岸の少数の国において理解されるに至った概念に過ぎない。これとは別に当然のことながら別の書物、コーランやブッダの教えに基づく強力な価値観が存在していた。著者は、これについて西洋的眼差しの欺瞞性と述べている。

 この点での論証はスリリングであるが簡単に説明は出来難いので、読んでいただきたいのだが、民主主義とは本来国家と対峙する側に存在したという点は重要な指摘だと思う。その民主主義をいわば国家の側が簒奪し、国家の強制的装置に接ぎ木しようとしてものなのだ。

 西洋文化こそが民主主義を独占保持しているという西側にある強力な認識はしばしばそれに反する勢力に対して武力で圧殺するときのイデオロギーとして使用されている。しかしこれは完全に誤った認識であることをグレーバーは強調している。彼は本来的意味の民主主義的実践ーー平等思考の意思決定への志向はどこにでも生じている。特定の「文明」や文化や伝統に固有なものではない。グレーバーに取って民主主義とは絶対的な水平性を意味し、平等を、無権力を意味しているのだが、現在国家に簒奪された民主主義は垂直性、権威、高速的権力、序列といったものを纏うものとなっている。

 これに対して著者が依拠して居る論理は西洋的な歴史ではなく人類学の対象となる世界から生まれてくる。この点は、私自身にも思いが至る。ポランニーに再び光が当たっているし、グレーバーもまた同じく人類学からの人類の根底にある生き方の復権をイメージしている。

 彼の場合はマルセル・モースである。ただモースにはマルセル・モースと別の意味で新しいモース派という意味があることを知らなかった。アメリカではまるで話題にもならない"Mouvementi Anti-Utilitariste dand les Sciences Sociales"という知識人集団の頭文字をとってMAUSSと名乗っていて、その根源をマルセル・モースにおいているということなのだそうである。

 モースといえば「贈与論」がよく知られている。贈与概念を経済の基本に置くことで、新資本主義で瀕死の世界に対峙できる理論を構築できうるかなのである。新自由主義に取って必要な公共とは市場であり、国家の役割はもっぱらこれを強制的機能の行使になる。そこに対抗するのに経済の水平的な贈与が意味を持つかである。人類学的に見て多くの民族でいわゆる経済は、まずもって与え合うということであった。そこには上から与えるというのとは概念が違う物の移動があった。持つものは多くを与える(ポトラッチという笑えるような形態を見て欲しい)ことで、持たざるものを支配するのではなく、精神的な豊かさ(もっと素朴に、ホッとする感覚かな)を互いに持ち合う。しかし、これが現代社会で成り立ちうるかについては、微妙であるが、成功するかよりは、やってみることの重要性を書いているようである。例示してあるのはメキシコのサパティスタの蜂起とその後の自治的な政治。また2011年のオキュパイ・ウォール・ストリートでの「私達は99パーセントだ」のスローガンはこのグレーバーの考案者の一人でそうである。

 この論考は日本の政治情勢への一つの検討材料になる。権力奪取が目的であることに縛られた運動や理論には注意をすべきだという点だろうか。

 アナキストという言葉は長きにわたって侮辱の言葉として投げかけられてきた。アナーキーという概念の語源的意味は(中心をなす政府の不在)であった。それが無秩序という方向に拡散されてきた。そして主権を持つ支配者、主権国家がなければ悲惨であるという認識に置き換えられてきた。しかし新自由主義の世界によって、今再びアナーキーな秩序(平等・水平)への関心が望まれ、中心的権威を排して集合的な自己組織化を考える時が来ている。もちろんそれへの軽蔑や無視やユートピアだという諦めもあることは当然として、今「アナキズム的転回」を私は希求する。

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