猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 すごいタイトルの本を読んでみた。「人殺しの花 政治空間における象徴的コミュニケーションの不透明性」大貫恵美子著

 花好きとしては、ちょっと手を出しかねる気分ではあったが、もちろんその意味するところは軍国主義化の日本の桜でありヒトラー政権化のバラの象徴制についての論考であることは推察できたし、どのように論じられるかに興味があった。

 筆者は人類学をベースにして日本の近代天皇制などについても重要な著書を出されている方であることは存じ上げていた。

 著者は美しい、庶民の愛してやまない桜がどのように死を美化することで死へと追いやる存在にされたのかを追求している。日本の桜に対応するものとしてレーニン、スターリン、ヒトラーという権威主義体制下でのバラの象徴の悪用もまた、人々を無意識に死を呼び込む花として使用された。

 本書のタイトルが直接に論じられているのは約3分の1で、その他はむしろ日本における天皇制における象徴の外在化が見られないことに対してヨーロッパにおける王権における象徴が外在化(私の言葉にして理解すると、見える化)に腐心する点の対照的なあり方が論じられている。


 桜について、著者は定説に反して「あわれ」と強く結びつけられてはいないという前提から出発している。「源氏物語」なども桜は華やかに咲き誇るのを美しいとする圧倒的に陽性のシンボルである。つまり死とは結びついていないのだ。「伊勢物語」においても生と愛の儚さとは結びつけられたが死とは関連付けられなかった。それ以上に問題なのは貴族層に美的感性を持って象徴されたのは中国由来の梅の花の美の受容であった。これに対して桜は土着の文化である宗教的な山岳信仰の中で桜は聖なる存在であった。これが8、9世紀以降に土着の美意識への傾斜によって日本人エリート層が中国とは異なる日本のアイデンティティーとして受容し始めた。

 19世紀以降は、日本の近代化、工業化、軍事化、それの総体としての西洋化が喫緊の課題となっていた時に桜の花の持つ象徴制の変化は国家的規模で改変され、変化してゆく。

 明治初期、明治期の最も優秀な頭脳であった西周は図らずも後世に大きな禍根を残すことになる「軍人勅諭」を書いたのだが、西は日本人兵士ならば誰もが持つべき習性を桜の花の象徴制と結びつけた。さくらの花の「軍国主義化」は特攻隊作戦において頂点に達して、桜の花の美的要素を特攻隊部隊や飛行機の名称やデザインの中に溶かしこみ、祖国のために死ぬというイデオロギーの美化をもたらした。この桜の花の意味の「軍国主義化」は桜の花の多義性、すなわち咲く桜が軍人の力を称揚し、散る花びらは戦没兵の魂という意味を重ねた。花が咲き散るという過程は自然のものでありながら、それであるからこそ生も死も(靖国での再生も)一連の自然に連関していると規定された。

 これに対してヨーロッパにおいてはバラが政治空間において栄光と権力との結びつきが早くから始まっていた。

 しかしヨーロッパにおいては反体制の象徴としてのバラのあり方が興味深い。フランス革命期、民間では「バラ冠の祭り」が行われていて、バラの持つ象徴体系は以後連続性を持って現れ、民衆の祭りとしてのユートピア的な祭典のビジョンがフランス革命末期のロベスピエールの花月の深淵、恐怖政治(テロル)へと無意識的に流れる下地となった。このバラ冠の祭りの習慣は19世紀にいたり、労働者階級の運動の中に取り入れられた。その形態がメーデーである。1889年の第二社会主義インターナショナルの大会で5月1日が労働者の日と定められ、20世紀初頭にはバラがその象徴としての位置を確固たるものとした。

 このようにバラは労働運動の象徴となったが、他方で権威主義的な独裁者はバラをプロパガンダに取り入れた。その最悪の形がヒトラーであった。ヒトラーは労働者の意識にある赤いバラの上に鉤十字を上書きし、それをイコンとした。しかし一方、白いバラの象徴制はキリスト教徒としての純粋性を保持していて、短命ではあったがナチスへの抵抗運動をなした「白バラ抵抗運動」を想起させる。

 ヨーロッパにおけるバラの象徴体系は、日本に於ける桜の象徴体系と並行的に論じられるであろう。それはイメージの多義性である。バラも桜も片方から他方へとひと続きの流れにありその中で意味が変容されて行くにもかかわらず、あたかも自然の事象であるかのごとく流れて行く。それが人殺しの花を生じせしめた。

 こんなところが人殺しの花の論考の私が理解しえた点なのである。

 これ以後の論考は、日本人のアイデンティティを支配している米の問題なのであるが、この論考には少し私には受け入れ難い点もある。それは農民における米とナショナリズム・愛国心と言う認識が、非常に狭い論点になっている気がする。特に農民が外米を受け入れないと言う保守的認識は、現在において日本の農業を外圧によって解体しているのが保守を自認している日本政府であり、日本的農業生産を保持し、グローバル化から本来の米を守るべきだと考える農民とのせめぎ合いの中で、農民の米に対する意識性の狭さが狭い愛国心になっているような印象の論考は、少し疑問符をつけたいと思った。

 ついで、天皇制について。これは天皇と天皇制の明確な区別をした論考が少ないことから、重要と考える。そのキーワードについては「自然的身体」と「政治的身体」という概念なのであるが、実は私はカンドロヴィッチの「王の二つの身体」というイギリスの王権についての本を読んだ時、日本の天皇制問題をこれで考えられないかと思っていた。それが本書で引かれていて、(あらま)私もそれほどバカではないかもと思ったものであるが、詳しく述べるとかなり複雑になるので、別に書こうかと思う。

 本書の命題は、コミュニケーションの不透明性が強調されていて、その点に私達が気付かない点を指摘することにあるようで、特に象徴というものの多義性は気づかないうちに権力に取り込まれる点への警鐘と読み取りたい。自然な美を賞賛しその崇高な美しさに浸っているうちに焦点がどんどんと移行し、崇高な死を自然な流れとし、美的なありようにされて行く。

 周囲にあるあれこれの多義性を単純化して、権力に利用されないように、花の美しさはそれだけで美しいのであり、権力の介在を拒否する美しさをこそ心から愛でるものでありたい。

 






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