猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

現在の社会情勢下、特に新自由主義のグローバリズムに対する抵抗線はどこにあるのか、悩みつつ思考する日々なのであるが、ここのところ私の心を揺さぶっているある思い、それはアナーキズムなのだが、それを励ましてくれているアナーキスト人類学者デヴィッド・グレーバー「アナーキスト人類学のための断章」を読む。

 グレーバーの書作は多数あり、「民主主義の非西洋起源について」はすでに以前に紹介したことがある。その彼のさらに以前の著作が本書であるが、2006年に初版が出て以来、手に入らず、今年になって再版が出た。

 本書の訳者の紹介によると、父親はスペイン市民戦争の「国際旅団」の一員として戦い、母親はアメリカの労働運動としても目覚ましい運動であったニューヨークの服飾関係の女性労働者の運動体「国際婦人服労働組合」の活動家であったという。彼自身は人類学者としてエール大学の教員であったが、彼の政治行動への積極的な参加とラディカルな発言をめぐって大学から再雇用を拒否され、学者としての質の高さ、教育者としての有能さから学生、同僚、各種の活動家からの支援があったが、処分は撤回されないまま職を失ったのだそうだ。その後1999年シアトルに始まったグローバル・ジャスティス・ムーヴメント(Grobal Justice Movement)に参画する過程で、アナーキズムについての認識を新しく提示して行くことになった。

 本書を読むと、アナーキズムの論理性とか優位性とかいうものを批判する側がよってたっている哲学の権威主義的で西洋に偏った歴史性が根底から考え直すべきなのではないかということがよくわかる。またアナーキズムが到達されえないユートピアという認識もまた再考の余地がある。

 グレーバーは特段にアナーキズムが全てに優れているということを強調しているわけではない。彼はこう書いている「アナーキストであろうと誰だろうと、一緒に並んで世界中の暴力的制度と闘おうとする人々の関係の中で、「聞くこと」「理解すること」「道理」を開発すること・・・それを望む同盟者との関係においてさえ、圧力をかけ、協定を結び、制度的統合を図ることを含む、あらゆる「暴力的制度化」を絶対的に拒否しようとする挑戦」が彼にとってのアナキストとしての矜持であるようだ。

 学問においてもフーコーやドゥルーズは疑いなく重要であるが、彼らを英雄視し、セクト化した学問もまた前衛主義的な誤りにいたるという指摘がされている。

 著作に託した望み、と彼は書いている。「人に指令せず、人を侮らない知的実践の形式の可能性である。私が欲しているのは、新しいラディカルな政治的実践から立ち上がる新しい政治思想を正当に認識し得るような知的実践の形式、我々自身が、より良い世界を見たいという欲望を共有する様々な人々との(理想的には)贈与関係に補われた解釈者以上のものではない、という事実を認識する謙虚さを持った知的実践の形式である」とある。

 彼が人類学を根底においている意味は大きい。現在危機に瀕しているとはいえ、民主主義の中核にある決定のプロセス、多数決は古代ギリシャ・ローマから連綿と発展してきているという認識に疑問符はつかないか?人類学者がフィールドワークで対象とする社会は原始的社会、近代化以前の非民主的社会という認識の歪みから、それらの外形的に原始的社会構造の中にある平等性の維持のシステム。それがなぜ近代的でないことで価値がないのか?それへアプローチすることによって視点を変えることで、見えてくる西洋近代とは異なる多様性に満ちた共同体が生きていたことを再確認し得ることは大きい。詳細は本書を読まれることを希望するが、意思決定過程が多数決でしか機能しないということは大きく間違っているかもしれない。単純化すれば運動の企画においてもアナーキズムの前提は誰も他人を自分の考えかたに改宗させるべきではなく、目前の行動の問題に焦点を絞り、過程ではあくまでも平等主義を保持すること、そしてその過程自体を正しい社会の展望の主要なモデルとしてゆかねばならないということのようだ。そしてアナーキストが必要としているのは「高踏理論(ハイ・セオリー)ではなく、低理論(ロー・セオリー)」で、変革のための企画から出現する現実的で、直接的な諸問題と取り組むための方法論である。私自らの言葉に言い換えると、専門家の高度な知識を拒否するものではないが、現場での必要から生まれる路上の決断を理論とするということであろうか。

 西洋的民主主義とは異なる実際の幾つかの例が紹介されている。特にグローバリズムをアナーキズムの側から乗り越えること、国家をまたぐ人の動き(移民問題と国境問題)や組織論としての網状組織化(ネットワーク)と小規模グループを「類縁グループ」としてつながること、新自由主義の拡大を阻止するためのグローバルな闘争において、ラディカルな民主主義の新しい形式を発展させることの重要局面で、アナーキズムの運動論の重要性は今強く求められる。

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