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付き添う猫

猫が家にいるようになってけっこう長いのですが、代々のどの猫も私が風呂場に行けば必ず着いてきて、扉の前に付き添ってくれました。
真面目な顔でやってきて、シャワーやらお風呂やらが終わるまで待っています。
上がると、さ、帰りましょうというように、先に立って部屋に帰って行くのです。

飼い主のお風呂に付き添う猫は意外と多いようで、よくよそのお宅の猫たちのそんな話も聞くのですが、その理由としては、
「猫は水が嫌いなので、危険な場所にいる飼い主を案じて扉のそばで心配している。」
なんて説があります。
なんて可愛いんだろうと思いますが、私としては、最初はそうだったけれど、お風呂に付き添うと飼い主が喜ぶから付き添うようになった、という説を提唱したいです。
猫というものは、褒められることが好きで、人間が楽しそうにしたり、笑うと喜ぶものだから。

先代の猫は、縞三毛の大きな賢い猫で、十九歳と三ヶ月で虹の橋に行ったのですが、この子も使命感を持ってお風呂に付き添う猫でした。
私がお風呂場に行きそうな気配を察して、事前に待っている時もあれば、水音を聞いてあとからお風呂の前に来ることもありました。
そんなときは、シャワーを浴びていると、猫の形の影が、ガラスの扉に映るのでした。

上がるときに、お風呂場の扉を開けて、
「レニちゃん、今日も付き添っててくれたの? ありがとう」
と頭を撫でると、猫は満足そうに目を細め、喉を鳴らして、そして、さあ帰ろうと長い鍵しっぽを振って、私を部屋へと誘うのです。

たまに、私がお風呂から上がってから気がついて、走ってくるときもありました。そんなときは、しょんぼりとお風呂場の扉の前に座り込むのです。
一日に一度か二度、毎日のお風呂への付き添いを彼女はどうやら心の底から楽しみにしていたのでした。

猫は我が猫ながら、美しい猫でした。
緑色の目に、くっきりとアイラインが入っていて、手も足も顔も長くて、見栄えがしました。何だか大きな猫だったので、宅配便のひとに、これは猫ですか、なんて訊かれたことがあるのも懐かしいです。
縞三毛の柄に、手袋に足袋にエプロンが白くすっきりと入っていて、この柄は、昔からいう、働き者の猫だねえ、ねずみ取りがうまいんだねえ、なんてよく撫でてやっていたものです。
我が家にねずみは出ないので、働き者かどうかはついぞわかりませんでしたが、常に私のそばにいて、見守っていてくれたような猫でした。
いや最初は生まれたてで捨てられていた、私がこの手で人工哺乳で育てた、小さな赤ちゃん猫で、オカアサンオカアサン、と私に甘えていたはずだったんですが、猫というものは、ある時期を過ぎると、にんげんを我が子のような眼差しで見るようになります。
あの猫もいつの日か、仕方ないわねえ、みたいな目でこちらを見守るようになりました。

猫は私の枕の左側に丸くなって寝るのが常だったのですが、私が夜更かしして仕事をしていていつまでも寝ないと、ベッドのその場所に、エジプトの猫の女神のような姿勢と表情で座り込み、こちらをじっと見つめ続けました。
振り返ると見ていて目が合うので、とにかく圧がありました。
朝方まで寝ないと、猫は怒りました。
ベッドの上に仁王立ちになって、叫ぶように鳴くのです。

猫としては一緒に寝るのも毎日の楽しみで、だから寝よう、といいたくもあったのでしょうし、いつまでも寝ないことを心配しての叫びのようにも聞こえました。
あの猫が生きていた頃、私は良く徹夜で仕事をしていたので、よく猫の叫びを聞いていたものです。

猫は晩年、甲状腺機能亢進症になり、投薬治療をしていたのですが、隠れていた腎臓病の症状が出てしまい、家の中を歩くのもやっとのような状態になりました。
やがて歩けなくなり、トイレに行きたそうなときは抱えていって、させてあげるようになり、おむつを用意したりした、その頃のことです。
シャワーを浴びていたら、ふっとお風呂場の扉のガラスに猫の影が映りました。
驚いて扉を開けたら、そこに猫が、歩けないはずの猫が、得意そうに顔をもたげてうずくまっていました。
それはまさに、ドヤ顔といいたくなるような、自慢げで、きらきらした、実に楽しそうな顔で、久しぶりにそんな猫の顔を見たのでした。

実は母が猫をお風呂の前まで抱いてきたのだとあとで聞きました。
私がシャワーを浴びていたら、お風呂の方に這っていこうとしたので、抱いていってあげたのよ、と。
私に抱っこされ褒められた猫はとても幸せそうで、ずっと喉を鳴らしていました。

猫は結局、病院で入院中に亡くなりました。
その前の夜、お見舞いに行ったとき、私の声を聞いて顔をもたげたこと、私が帰ろうとすると一緒に帰りたい仕草を見せたこと、そんなことを思い出します。
不思議なくらい、私は猫は助かると信じていました。少なくとも、そのときの入院からは、無事に退院するものだと。
その数日、仕事が峠だったので、私は病院のそばのホテルに泊まり込み、猫のそばに付き添うような気持ちでいました。何かあったとき、すぐに駆けつけられるようにそうしたのですが、それでも不思議と、猫が死ぬとは思っていなかったのです。
こちらの仕事が峠を越える頃、猫も退院になって、一緒に家に帰れるかなあ、なんて思っていました。

原稿の一番大変な部分を書き終えて眠った夜、いやほとんど朝方。
目を閉じてからいくらもたたないうちに、病院からの連絡の電話で目が覚めました。
猫の心臓が止まった、という電話でした。

そうか、と思いました。
じゃあ急いで行っても間に合わないんだ、と冷静に思ったのを覚えています。
着替えて迎えに行かなくては、と考えて、床に座り込んで立てなくなりました。
それからゆっくりゆっくりシャワーを浴びて、着替えて、病院に行きました。そのテンポでないと動けなかったのでした。

猫は綺麗に洗われて、かわいい棺に入れていただいていました。まだあたたかくて、柔らかくて、眠っているようでした、
病院のみなさんに見送っていただいて、猫はその朝、私と一緒にタクシーに乗って家に帰りました。

あとで病院のスタッフの方に聞いたのですが、猫はその前の夜、お見舞いに来た私が帰ったあと、ご飯を食べたそうなのです。
その翌朝には儚くなったのですが、猫は生きたかったのだなあと思いました。猫は生きて、家に帰るつもりだったのでしょう。

先代の猫がそうしていなくなったあと、四十九日を過ぎてから、新しく猫を迎えようと探し始めました。
客観的に見て自分はそこそこ及第点な猫飼いだと思っていて、だから猫をまた家に迎えようと考えても赦されるかな、なんて思ったのです。
けれど私の年齢を考えると、探すべきは大人の猫、できればシニア猫だろうとも思いました。子猫の長い人生、いや猫生に最後まで付き添うには、こちらの寿命がたりる自信が無く。
逆にシニア猫は、老いるうちに少しずつ病も得るだろうけれど、私はそんな猫の老後を愛して、最後の日までゆっくりと面倒を見てあげられるだろうと思いました。
というか、投薬も輸液も手が覚えているし、病気に関する知識も忘れないうちにまた生かしたいものだ、なんて思っていたくらいで。
悲しいのに、どこか張り切ってもいました。

多分私は、もう一度老いた猫と暮らし、今度こそその猫を一日でも長く生きながらえさせたかったのだろうと思います。
つまり本心は、もう一度あの猫との暮らしを取り戻したかったのだと。
今度は、ハッピーエンドにしたかったのだと。

今でも時折、夢を見ます。
そんな魔法はないとわかっていても、どこかの時点まで時を巻き戻せれば、私の猫は助かって、今もまだ家にいたのではないかと。
晩年の猫の闘病の日々、飼い主として、いくつかの治療の選択をして、その選択の積み重ねの結果、あの朝あの猫は死んだけれど、どこかで違う道を選んでいたら、違う未来を私と猫は生きていたのではないかと。

まあ、客観的に見れば、あの猫は十九歳を越えるほどは生きた訳で、充分長生きしたといえないことはない。あれ以上の長生きを望むなんて贅沢だとわかってはいるのですけどね。
でもかわいいかわいい猫だったので、割り切れるものでもなくて。
きっとそれは、世界中の飼い主がそうなのかも知れないと思います。どんなに長く生きて、幸せそうな一生を終えた猫でも、飼い主はもう一日長く生きて欲しかった、と泣くものなのです。たぶん。

さて、まずはネットで、と、里親を探しているシニア猫の情報を探し、あの子もこの子もかわいいなあ、でもいまひとつ、決めかねるなあ、なんて思っていたある夕方のこと。

忘れもしない、一年前の九月十日の夕方のことです。
Twitterを見ているうちに、里親を探している子猫たちの写真が目にとまりました。
ふと、ほんとうにふと、いま長崎ではどんな子猫が里親を探しているのだろうと思いました。

Twitterを手がかりに、Google 検索であれこれ探すうち、あるサイトで、長崎県の動物管理所に収容されているという、一匹の子猫の写真に目がとまりました。
きじとら猫、と書いてありますが、なんだか柄がはっきりしない、いうならば、きじとら風の猫でした。あとで知ったのですが、いわゆる麦わら猫、という毛色の猫だったのです。
この毛色は好みが分かれるというか、ヤマネコみたいな模様なので、他の毛色の猫たちからすると、いいづらいのですが、やや地味です。
だけど、あ、かわいいと思いました。

いままで縞三毛猫と暮らしていたので、できれば次も縞三毛や三毛猫が良いかな、と思っていたはずでした。
シニア猫をさがすときも、やはり三毛猫たちに目が行っていました。

あのとき、この猫だ、と思った感覚は、何だったのだろうと思います。
掲載されていたのはたしかにかわいい写真だったのですが、他にもかわいい猫の写真はたくさんありました。いやもっと華やかで、かわいい子猫は、そのサイトにたくさんいたのです。
だけど。

あれ、そもそも私が探していたのは子猫じゃなくてシニア猫だったのでは、とも思いました。
衝動買い、ならぬ、衝動飼いをしてはいけない。
この猫がおとなになり、やがて年老いて世を去るまで、私は元気に長生きして、現役の作家でいられるものなのか、とも。

だけどこの猫は、私が迎えに行きたい、とあの夕方、なぜか思ったのでした。
大丈夫、私が長生きすればいい。仕事も頑張って、ずっと現役であり続けられるようにしよう。
私が頑張ることで、この子猫が幸せに一生を送れるのならば、それを目標に生きてゆくのもいいか、と思いました。

そして、もしこの写真でしか知らない子猫が、悪い病気を持っていたりしても、治せるものなら何とかしよう、無理だとしても最後まで寄り添おう、と心に決めました。
性格が悪かったりしたり、多少お馬鹿でも、きっと愛せる、愛してみよう、と思いました。
この子を腕に抱いてみよう、と。

先代の猫を亡くしたその日から、亡骸を焼いたそのときから、腕の中に何もいなくなったことが、ずっと物足りなかったのです。
抱きしめるあたたかな命が欲しかったのです。
そのための猫は、どんな猫でも愛せる自信はありました。その責任と覚悟を忘れずにいよう、と心に誓いました。

一年前のあの夕方、あの写真を見なかったら。ふとした気まぐれで長崎にいる子猫たちの写真を見てみようなんて思わなかったら。
私はきっと、どこかのシニア猫を迎え、その猫を愛し、いま穏やかにその子と暮らしていたと思います。
そしていま家にいる千花ちゃんは、この家にはいなかったのでしょう。
二匹の猫の運命が、あの夕方に変わったのだなとあれから何度も思いました。
そしてたぶん、私自身の運命も、進む方向を変えたのかも知れないと。

あの夕方、私は、子猫の写真を公開して里親捜しをしていたボランティアさんに連絡を取り、ボランティアさんは夜のうちに動物管理所に連絡を取り、私はボランティアさんと動物管理所に、その子猫を迎えに行く約束をしました。

次の日、九月十一日に、タクシーに乗って、子猫を迎えに行きました。長崎県動物管理所は長崎空港のそばにあり、リムジンバスでも行けるだろうと思いましたが、少しでも早く迎えに行ってあげたかったのです。

亡くした猫を迎えに行くために用意していた、その日のままにしていたラタンのキャリーバッグを持って。
そして、動物管理所のみなさんの笑顔に見送られて、バッグに入れられた子猫は、私と一緒にタクシーに乗ってその場所を別れ、我が家の新しい猫になったのでした。

ひとつ、不思議なことがありました。
子猫の写真をアップして里親捜しをしていたボランティアさんは、なんと私の本の読者さんだったのでした。
そのひとから確認のための電話がかかってきたとき、ものすごく嬉しそうで明るい声だったのも道理、そんな楽しい奇跡があったのでした。
いや不思議はもうひとつあって。
そのひとは私が通っていた、千葉県の中学校の後輩にあたるひとなのだと、やりとりするうちにわかったのでした。

世の中不思議なこともあるものだというか、あの夕方、魔法の力のようなものが働いていたのかしら、なんて考えるのも楽しいことです。
小説ならこんな奇蹟は書きづらいかも。そんなことあるわけないですよ、とか読者さんに笑われてしまいそうで。

さて。
子猫が来てから、私は働き方を変えました。
夜は徹夜はせず、ちゃんと人間らしい時間に眠るように。
昼間はカーテンを開けて、部屋に光を入れるように。
締切に追われないように、仕事を詰め込みすぎないように。多少不義理になったとしても、自分が抱えている仕事の量を考えて、無理な仕事は入れないように。

ずっと忙しかったので、昼も夜も書き続けるために、私の部屋はほとんどいつもカーテンを閉め切っていました。遮光カーテンですから、真っ暗です。
部屋がずっと夜のままの方が、ペースを落とさずに書き続けられるんですよね。疲れたとき、横になれば、好きな時間に眠れますし。
締め切りに追われていたので、カーテンの開け閉めをする時間と手間さえ惜しかった、ということもあります。

けれど、子猫が来ましたから。
子猫は朝起きて夜眠ります。
お日様の光を浴びないと、元気に大きくなれません。
そして子猫はうちのひとが起きている限り、いつまでも起きていて、夜更かしに付き合おうとします。
子猫を寝せるためには、人間も健全な時間に眠らないと。

で、結果的に、私は以前より健康になりました。ダイエットもしないのに四キロほど体重が落ちたのがびっくりです。
油断してちょっと無理したら、この夏、夏風邪と膀胱炎に襲われて反省しています。
早寝早起きって大事ですね。
もう徹夜はやめよう。
そしてできればもっと痩せたいな、と。

先代の猫が見ていたら、喜ぶかそれともふてくされるか。
だから早く寝なさいって、私いつもいってたでしょう、ときっと大きな声で鳴いたでしょう。

暗い部屋で、原稿のことだけ考えていた日々は、仕事はとってもはかどりました。もちろん充実感はあったのですが、やはりひととしてまともに生きてはいなかったのだと思います。
それがわかっていて、でも仕事優先の日々でした。
私は年が年ですから、生きている間にあとどれだけ書けるだろうと、いつも考えていました。この世界に、どれくらいたくさん、自分が満足できる作品を残せるだろうと。読んだ人達が幸せになれるような、愛されるような作品を書き残せるだろうか、と。
先代の猫の晩年は特に、やがて必ず訪れるだろう猫の死と別れのことも日々思っていたので、猫と自分の最後を思いながら暮らしていたようなもので。

だけど、子猫が来て、私は部屋のカーテンを開けるようになりました。

千花、という名前は、もともと好きな名前で、登場人物にもつけたことがあります。
けれど名前ならいくつでも思いつくのにその名前にしたのは、千年も万年も生きるように、元気で長生きして欲しいと思ったからでした。
その願いを込めて、千の字をお守りのように子猫の名前に入れたのです。

子猫を迎えるのはおそろしく久しぶりで、昔とは子育ての常識もやや違っていたりして、勉強をしながら、向き合って育ててゆきました。
先代の猫が、最後はご飯を食べられなくなってしまったので、子猫が元気に美味しそうにご飯を食べているという、それだけで感動し、幸せになったものです。

病気でも良い、お馬鹿でも良い、と覚悟して迎えたはずが、子猫は元気すぎるくらい元気で、賢すぎるくらいお利口な子猫で。
唯一の誤算は、SSサイズの小柄な猫だったということでしょうか。
それは写真じゃわからなかったです。
LLサイズの先代の猫とあまりに体格が違うので、頭を撫でようとしても頭の位置がずいぶん下で、こちらの手が泳いでしまったりとか。
しっぽの長さがふつうの猫の半分くらいしかないのもびっくりしましたが、そういう猫が昔から多い長崎の猫らしいということで、いまは気に入っています。

賢い子猫は、見る見る家に馴染み、私を慕い、あとを着いてくるようになって。

ある朝、シャワーを浴びていたら、ガラスの扉に猫の形の影が移りました。
ああ、千花ちゃんが来たのか、と思い、その瞬間、前触れもなく、泣けて困りました。
久しぶりにお風呂の扉に映った猫の形の影の前で。

そして今日も、千花ちゃんは、お風呂に付き添いに来ます。代々の猫たちがそうしていたように。
私がお風呂に行くタイミングを見計らって、先回りして待っているのが、彼女のスタイルです。

九月十一日で、千花ちゃんが我が家に来て一年になります。
猫も人間も元気です。


いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。