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シンジはなぜ、「あの場所」にいたのかーシンエヴァンゲリオンのラストについてー

※タイトルにあるとおりなので、未見の方は注意して下さい。

「シン•エヴァンゲリオン」のラストについて。

なぜ、最後が彼女なのか、、、。

マリとは、一体何者なのか、、、。

という話は、さまざまなところで、されていると思うので、私はマリではなく、ラストシーンの舞台である駅に着目したい。

なぜ、シンジとマリは、最後に駅を飛び出していくのか。

エヴァの世界の中で、「電車」はよく描かれていた。

たとえば、シンジが1人家出をしたとき、終着駅に着くまでシンジは、電車に乗り続ける。

そして、シトに精神攻撃を受けた時もなぜかシンジは、電車の中にいる。その後も度々、落ち込むシンジがいる場所(精神世界)は電車の中だった。

そして、今回のシンエヴァンゲリオンでも、やはり、父であるゲンドウとシンジは、精神世界(マイナス宇宙?)で、2人で語る時、電車の中にいるのだ。

電車は、線路の上を走る。そして、繰り返し、同じ駅を決まったルートで走る。

行ったり来たりしながら。

エヴァに乗り、敵を倒し、落ち込み、逃げ出し、また、エヴァに乗る。

シンジは、エヴァの世界の中で常にこのことを繰り返していた。何度も何度もくり返し。

庵野秀明はエヴァを新劇場版として再開するにあたり、以下の声明を出している。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。

そう、エヴァはくり返しの物語なのだ。

だからこそ、最初のテレビ放映版でも、旧劇場版でも、新劇場版でも、漫画でも、シンジはエヴァに乗り、逃げ出し、またエヴァに乗るのだ。

私たちは、そのたびに既視感を覚えつつも、シンジが逃げ出し、またエヴァに乗ることを喜んでいた。作中でシンジがいかに傷つこうと、それで、作品が楽しくなるのなら、構わないといったように。思えば、私たちは観客という立場でありながら、残酷なことをシンジにさせていたのだ。

エヴァに乗るたびに、物語を繰り返すたびに、シンジは傷つき、涙してきたのに。きっと、それは、シンジの分身である庵野秀明もそうだっただろう、、、。

観客に求められるたびに繰り返さざるを得ない物語。いつまでも走り続ける電車。それがエヴァだったのだ。

しかし、このシンエヴァンゲリオンで、シンジは、この円環の、くり返しの物語から抜け出す。

それは、いつまでも同じ電車に乗ることをやめるように。だからこそ、シンジは新しいパートナーであるマリと電車に乗らず、街に繰り出していくのだ(ホームで待ち合わせしていにもかかわらず)。

その場所は、庵野秀明の故郷である山口県の宇部新川駅だ。

なぜ、エヴァのラストをこの宇部新川駅に選んだのかは、庵野秀明にしかわからない。私小説としてのエヴァを自らの生まれた街で終わらせたかったのかもしれないし、それ以上に深い意味があるのかもしれない。

くり返しから、脱出したシンジは、これから自由に生きていくのだろうか。きっと、私たちは、シンジをもうエヴァに乗せてはいけないのだろう。

それは、寂しいことだけれど、祝福すべきことなのだ。

だからやはり、テレビ版の26話のラストは、正しかったのだ。円環から抜け出したシンジは祝福されるべきだ。

精一杯のまごころを、シンジに。