現代論考〜竹林の七賢を目指す書生希望の高学歴ニートが考える今の社会の正体

現代は、空虚な時代である。

「物ではなく、体験を買う時代になった」

そう言われて久しい。

しかし、実態はどうかというと、人々は体験を買うのではなく、ウェブを通じた他人の体験を眺めることに終始しているようにみえる。動画テクノロジーの発達、SNSでの写真・動画コンテンツの充実とともに、ゲームの実況者からスポーツ、旅行、はては馬鹿げた実験(〇〇やってみた系)まで、さまざまな「体験」がウェブ上に跋扈するようになった。ゲーム実況者などは、もはやそれだけで広告収入がサラリーマンの月収を軽く上回る状況だ。動画を視聴する人々がそこで得ているものは、自分自身にはなし得ない「体験」である。高級客船でクルーズ、世界トップレベルのゲーム技量、家では絶対できない(したくない)ような愚行(コーラ100本とメントス1万個をいれたバスタブを作りたい人はいても、実際にしたいと思う人はいないだろう。後片付けが大変だ)。そういったものを、動画の中の登場人物たちが自分の代わりに行ってくれる。それをみて、人がどのように感じるかは様々だが、自分が行なっていない事象を、あたかも体験したかのように感じることができる。それがいまの動画市場の本質である。

ちょっと脱線するが、「学ぶ」の語源は「真似ぶ」であり、真似をすることだった。その昔、ある離島で猿が偶然にも芋を海水で洗ったところ、それを群全体が真似して波及したという話があるが、他者の行動を真似することで自分のものとしていくすべは、人間だけの特権ではない。

しかし、動画メディアでは動画を「真似ぶ」人はそうおおくないのではないか。コメント欄に跋扈する心無い言葉(世界ランクのゲーマーに下手くそと言える投稿者は、いったいどれほどの腕前なのだろう?)や、「不快じゃないよ」程度の意思表示にしかならない「高評価ボタン」。人々と動画をつなぐものはとてもか細い相互通行不可のコミュニケーションである。たしかにコメントに動画製作者が反応して新たな動画が作られたりコメント上でのやりとりがあるなど、一定量のコミュニケーションは存在するものの、そこではすでに「供給者ー消費者」以上の関係にはなり得ない。仮に動画を「真似ぶ」人がいたところで、それは表に出ることはなく出たとしても二番煎じ、パクリと言われて叩かれるのがオチだろう。そして何より、その動画の膨大な投稿数こそ、「真似ぶ」人が少ない証左であると考える。

「真似ぶ」には一見では不可能な精緻な観察が要求される。武道において「見稽古」と呼ばれる稽古があるが、それはまさに師匠の体さばきや手の返しかた、気合の度合いなどを「見て」学ぶのである。本で読んだり、口で言われるよりよっぽどイメージがしやすい。しかし一度見たぐらいでモノにできるような簡単なものは少ない。何時間も何日も、何度も何百回もみることで見えてくる。そういうものである。動画メディアにある、プロクラスの技量を見せてくれる動画は、真似ぶには最も適していながら、常に新しい動画を更新し、人々を引きつけておかねばならないと駆り立てられている様は、人々がまさに動画を「一度見」しかしていないことの証左であると考える。

また、「なぜこんな動画を?」という動画も多い。買い物袋の開封や、バッグの中身の紹介などなど。これはまさに「代理体験で満足する」現代人の気質を端的に表しているといって良い。自分でその国に行かなくても、その商品を買わなくても、いった気にさせてくれる。買った気にさせてくれる。そうすることで、満足できる、ある種想像力豊な人種が我々現代人である。


では、我々が自らの手元にないにもかかわらず、満足ができる理由はなんだろうか?

それは我々自身が自身の欲求を見失っているからに他ならない。各々の求めるところのものが不明瞭なために、「とりあえず流行ってるもの」を取り入れる。周りの評価が高いから、欲しいのであって、欲しいから欲しいのではない。みんなが欲しがってるものだから、いいのだ。動画であれば再生数や高評価数の多い動画を見ておけば、周囲から浮くことはない。個性の時代、やりたいことで生きていくと言っているものの、本質はなんら昔と変わらない横並び志向である。


そしてこの「周りがいいといってるから良いもの」はより先鋭化され、「良いと言われている」という形さえ作れば、その本質がなんであれ(すっからかんであれ)売れるようになる。人々は動画の中身を見ていない。商品の価値を見ていない。いいねの数をみているのだ。


書店に行けば、さまざまなポップが並ぶ。多くの帯に、誰かの感想(それは著名人だったり匿名の個人ーあたかも読み手自身を彷彿とさせるようなーだったりする)が書かれている。ポップには〇〇で絶賛!とか、〇〇で話題!などとなっている。消費者側は、「え、話題になってるの?聞いたことないけど」と思いながら、でも話題になってるのなら外れではないだろうと手を伸ばす。書店に限らず、ネット上に跋扈する広告系は基本的にこの一点張りだ。

その際、注意すべきは、売り手側から買い手側へ、その商品の本質が一切伝えられていないことである。

その商品・サービスがいかに話題になっているかを伝える(場合によってはは信じ込ませる)ことには成功していても、物の本質(本であればそれがどれだけ面白い小説なのか、鋭い切り口なのかとか)を伝えていない。伝える努力を放棄しているようにも見える。ただ、それは当たり前にすぎない。だって、消費者側も、そこは求めていないのである。求めているのは多数派であるという太鼓判だ。


そんなこんなで、今日もいたるところに空虚な文字が並ぶ。そこに本質は介在しない。動画では実際の体験が得られないように、本質ではなくポップが物の価値を決めることになる。そんな社会に我々は生きている。


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