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「苦しみを味わう」という選択肢

瞑想の実践においては、何をする時も「意識的」におこなうように言われる。
だが、「何でもかんでも意識していたら、日常生活に支障をきたすのでは?」と考える人もいるだろう。

たとえば、私たちの歩行動作はほとんど無意識によって制御されている。
「右足をどうやって上げて、どのようにして下すか」ということを常に意識していたら、歩き方はぎこちなくなるだろう。
それと同じように、「意識的に話し、意識的に食べ、意識的に車の運転をしていたら、何もかもがぎこちなくなってしまい、まともに生活が送れなくなるのでは?」というわけだ。

しかし、瞑想における「意識的」という言葉は、「意識的にコントロールする」という意味ではなく、「意識的に味わう」という意味だ。
つまり、「意識的に見る」ということは「見ることを味わう」ということであり、「意識的に歩く」ということは「歩くことを味わう」ということなのだ。

対象は何であれ、味わうことが瞑想だ。
深く味わうことによって、私たちの「意識」は覚めていく。
味わうことで、私たちは「今ここ」に定まるようになり、過去や未来に彷徨さまよい出ることが減っていくのだ。

だが、苦しみについてだけは、「味わう対象」から除外してしまう人が多い。
たとえば、瞑想中に苦しみが湧いてくると、呼吸や眉間に集中することで苦しみから気を逸らそうとするのだ。

しかし、苦しみを前にして呼吸や眉間に集中しようとすることは、結果的に苦しみを抑圧することにつながる。
なぜならそれは、苦しみを見なかった振りをして抑え込もうとすることだからだ。

苦しみを進んで味わおうとする人はほとんどいない。
瞑想中はありとあらゆるものを味わうことが奨励されるのに、苦しみだけは誰も味わおうとしないのだ。

だが、苦しみを対象にして瞑想することは可能だ。
私は、苦しくなった時はいつも決まってそれをする。
なぜなら、それによって苦しみは枯れてなくなることを知っているからだ。

苦しみが自分を襲ってきたら、部屋を閉め切って一人きりになり、苦しみが自分の中で暴れ回るのを感じてみる。
胸が裂けそうになったらその痛みを味わい、はらわたが煮えくり返ったらその熱を味わうのだ。

それはもちろん不快な体験だが、時間とともに苦しみは消えてなくなっていく。
実際に試してみればわかるが、人はいつまでも苦しみ続けることはできない。
怒り続けようと思ってもどこかで冷静になってしまうし、悲しみ続けようと思っていても段々どうでもよくなってくるからだ。

もし苦しみを避けずに味わうならば、時間とともに苦しみは枯れる。
そして、この方法に習熟すると、苦しみが枯れるのが段々速くなってくる。
苦しみが生じた瞬間、それに照準を合わせて味わうと、すぐに苦しみが消えるようになっていくのだ。

なぜ苦しみの消失が速くなるのかというと、日常的に苦しみを抑圧しなくなるからだ。

もしも私たちが苦しみを抑圧するならば、苦しみは私たちの心の中に層となって残り続ける。
たとえば、雪が積もって解けないまま新しい雪が降り積もり、それも凍って次の層を形成するようになると、全部解かすまでに多大な時間がかかるだろう。
それと同じように、心が何重もの苦しみの層によっておおわれていると、苦しみが全部枯れるのにも時間がかかってしまうわけだ。

だが、もしも苦しみを抑圧することなく、その都度味わうようにしていると、そもそも「降り積もった苦しみ」が層になっていないので、すぐさま「一番底」に到達することができる。
この「心の一番底」にあるものが、「涅槃寂静ねはんじゃくじょう(ニルヴァーナ)」だ。

実際、苦しみが全て枯れると、そこには「穏やかな心地よさ」がある。
何故かはわからないのだが、全ての感情が蒸発した後に残るのは「無感情」ではなく、「喜び」なのだ。

「苦しみの層」は、この「喜び」をおおうように存在している。
だから、もしも「喜び」を自分の内側に発掘しようと思うなら、苦しみを抑圧することはやめねばならない。
むしろ、苦しみと直面し、それを味わい、苦しみに瞑想することが必要だ。

もちろん、そんなのは誰だっていやなので、世間には「苦しみを避ける方法」が山のようにあふれている。
誰もが「苦しみをどうやって避けるか」を考えていて、「苦しみとどうやって直面するか」について考える人はほとんどいない。

だが、実際には「苦しみと直面すること」が苦しみを避ける上で一番の近道だ。
なぜなら、苦しみを抑圧せずに味わうと、苦しみは蒸発して消えていくからだ。

逆に、苦しみを恐れ、それから逃げ続けようとしても、誰も逃げ切ることはできない。
どこかで苦しみにつかまってしまい、苦しむ以外になくなってしまう。

だが、苦しみのただなかにいる時でさえも、私たちは「逃げ道」を探す。
何とかして苦しみを終わらせようとし、「どうやったら苦しみはなくなるか?」「どうしたら問題を解決できるか?」と考え出す。
そして、そうやって考えることによって、苦しみをすっかり味わい損ねてしまう。

苦しみを味わう時には、「問題の解決」についてはすっかり忘れる。
「あいつが悪かったんだ!」という犯人探しもせず、「なんで自分がこんな目に…」という自己憐憫も脇に置いて、苦しみを感じることだけに集中する。
苦しみについて「考える」ことなく、あくまでも苦しみを「感じよう」とするのだ。

胸の痛みを感じ、怒りや不安の中で身体が震えるのを感じる中で、苦しみはやがて消えていく。
考えるのはその後でいい。
もし苦しみにのたうちながら問題を解決しようとすると、余計に問題がこんがらがってしまう。
問題を解決するのであれば、まず苦しみをどうにかしてからだ。

苦しみと一緒に留まること。
苦しみと敵対しないこと。

それによって、私たちの内側にある最奥の扉は開いていく。
まだ苦悩することを知らなかった頃のまっさらな心が、そこにいるのだ。