見出し画像

Twitterでフェミニズムや人権やポリコレについて考えてたら鬱病になったニートの体験談

※この記事は社会不適合者の戯れ言であり社会的な有益性は期待できません。またセンシティブな内容や不快表現も多々含まれますので読む際はご了承ください。

はじめに

昨今のメディアでは「女性蔑視」「人権」「ジェンダー」などのワードが飛び交っています、フリーWi-Fiくらい飛び交ってそうな勢い、僕はフリーWi-Fiは怖くて使えませんが……。
それはさておきこんな記事を読むくらいだから皆さんも多少なりともそれらのワード、話題について何かしら思うところがあるのではないでしょうか?
僕は現在心療内科に通う引きこもりニートなのですが、ここ数年はこれらの社会問題がほぼ常に頭に渦巻き心休まる時がほとんどない状態です。なぜそうなってしまったのか?大きな原因のひとつとしてTwitterがあげられます。今回の記事はTwitterに関することを中心に僕自身の体験や鬱思考を語っていくものになります。

改めて自己紹介、僕はオタク趣味のある引きこもりニートです。高校を卒業してからバイトを転々とするも強迫性障害やコミュニケーション能力の低さなど諸々の理由で上手くいかず、その流れで20代前半から引きこもりニートになり抜け出せないままです(厳密な定義で言えば「ニート」に当てはまらないかもしれませんが世間一般の認識での「ニート」には当てはまってると思いますので便宜上ニートを自称させていただきますので納得してもらえると助かります)。女性との交際経験は無く素人童貞です。

ちなみにわざわざ素人童貞と表明したのは別に誇っているわけではなく、昔フォロワーだった人に「童貞だと思ってたのに騙された!」とネチネチ嘘つき扱いされたのが負担だったので最初に言う方針にしました。
普段は「私は素人童貞です」と書かれた襷をかけて町を練り歩いています。今のは冗談です。



※この記事は僕の記憶を元に心の闇をさらけ出して書いているもので実際の経験や社会の事実とは時系列など様々な面でズレがある可能性も否定できません。また、鬱の悪化を防ぐためインターネットを見る頻度を意識的に減らしてしまったため、刻々と変わるインターネット事情について語るにはすでに記事の内容が古くなっている可能性が高く、読む頃には違和感が出ている場合もあると思われます。社会問題について語るうえでのデータとしては不十分なもので、飽くまでも個人の体験談に過ぎないということはご了承ください。

それではびっちり予防線を張ってゴリゴリの責任逃れをしたところでいざ自分語りを始めていきたいと思います。


【Twitterで狂っていく精神】

2012年あたりでしょうか。やり始めた当初のツイッターは僕にとってとても新鮮で楽しい場所でした。遠慮なくアニメの話が出来るし、想像したこともない変な人がいっぱいいて、思わず笑ってしまうネタツイや初めて触れる知識など、たくさんの刺激的な情報が次々と更新されて溢れるように流れてくる空間。僕は元々インターネット特有のアングラ的な解放感、現実では目にしないような変態性だったり辛辣すぎる毒舌のセンスなどに惹かれる人間だったので、当時のTwitterにのめり込むのも必然と言えました。

ツイッターを存分に楽しんでいた僕でしたが、いつ頃からでしょうか?はっきりと思い出せませんが、フェミニズム系の話題や表現規制の話題がTwitter上で目立つようになってきます。

最初はフェミニズム系の意見って基本的にバカにされがちな印象でした、少なくとも僕の見ていたタイムラインでは。それでも当時の僕は支持するかはともかく、フェミニズムという思想自体を全否定していたわけではありませんでした。

僕個人はインターネット特有の毒舌センスも好きだし表現規制には強く反対でしたが、その一方で子供のころから「悪い意味でまじめすぎる」と言われていたくらい、ルールや倫理に強くこだわる性質も持っていたので、平等や個人の傷つきというテーマにも関心があったんです。
その上、僕の記憶違いでなければ当時は「コミュ力」という概念が重要視されブーム化していたり、「多様性」や「価値観の尊重」などが叫ばれだしたり新しい考えがどんどん広まっていた時期だと思います。そして世の中が変化していくことを当時は僕自身も良いことだと感じていました。

僕は昔から「男らしい」と言われる方ではありません。ナヨナヨして他人にナメられてばかりの人生を送っていましたし、女装や少女漫画など昔なら男の趣味としては引かれがちな文化も好きでした。だから

(基本的に自分は社会的弱者のはず、個人個人の権利が尊重される世の中になれば自分だって救われる。人権尊重・ジェンダー平等、その考えを持っていることは他人より進んだ新しい価値観を持っている善いことに違いない──)

という思いからフェミニズムやジェンダー論などにも多少は共感する部分があったわけです。

そして当時は今より若かったし、ニートから抜け出そうとする向上心も残っていました。世の中で大きな価値とされている「コミュ力」が自分に欠けている自覚もあったので、他人を理解して配慮できるように努力してコミュ力を身につけてまともな人間になりたいという野心もあった。



『自分の意見を押し付けず他人を尊重する』『常に新しい情報に目を通す』
『差別しない』 
『人に流されず自分らしくいる』 
『コミュ力を身につけ面白い人間になる』

僕はこれらの社会が推奨する正しさを自分自身の達成目標にすることにしました。

幻の化け物「意識高い系ニートX爆誕」です。



社会の求める正しさが現実に実行する場合いかに難しく矛盾しているのかを身を持って体験することになるのはこの後の話、当時はまだ気づいていません。

大それた目標をぶちあげつつもそこはニート、実際にやってることと言えば日々Twitterに張り付いて遊んでいるだけ。まあ学級目標くらいの距離感だったと思います、初めのうちは。

しかし社会的正しさを頭の片隅に置いてTwitterをすることで僕の精神、いや、僕だけではなく他者を含む僕の見ている世界が急速に蝕まれていきます。恐ろしいことにTwitterが遊びでは済まなくなるルートに僕(Twitter民)は既に足を踏み入れていました。



当時のツイッターはかなりの無法地帯でした。僕のタイムラインには過激なツイートをする人も多く、
『まんさん』『女さん』『ガイジ』などの言葉も溢れていました。それらをインターネット上のアングラなネタワードとして解釈し許容していたものの個人的には抵抗もありました、言葉の捉え方は人それぞれだし意味的に悪かったとしてもコミュニケーションの中であえて使う場合もあるでしょう。とりあえず自分では使わないようにという配慮だけしていました。

しかし「周りが当たり前に使っている流行りのワードを自分だけが使わない縛り」を設けるのは想像より遥かに心労を伴いました。
他人を差別したり傷付けないことを優先していると空気を読んで周りを喜ばせることを捨てているような気がしてくる。
『コミュ力を身につけ面白い人間になる』という目標からどんどん遠ざかっている気がする。
周りが楽しんでいる「ノリ」を否定するのも相手の趣味嗜好や人格を尊重していない気がする。そういったTwitterのノリに対してどっちつかずな気分を抱えながらも、問題を感じている部分もあったので、そういったワードに憤慨する人達の言い分も理解はできました。とりあえず周りでフェミニズムがバカにされていても頭ごなしに否定せず参考までに意見を見てみよう……と様々な女性アカウントのツイートをチェックしてみるようになりました。


ところが実際に確認した女性アカウントのツイートはそりゃもう酷いものでした。
『男さん』『チンポ』『陰茎』『精子脳』『(男)Y染色体』といった侮蔑を込めた呼称が溢れていて、こっちとしては理不尽に感じるような男叩きをひたすら繰り返していました。

こうなると流石に意見に目を通しておこうと思っていた僕も(いやこれ……女も男に対してめちゃくちゃ言ってるじゃん……これで一方的に差別されてる弱者って主張してるの?はぁ?)と腑に落ちず混乱とイライラを感じるように。

それでも最初は冷静さを保とうと意識していました。

(まあ一部の過激な人が言ってるだけだろうしこんなんで女性を恨むようになってたらそれこそバカな差別だよな、ははは…)と。

しかし、ここからがツイッターのすごいところでそういう女性が毎日毎日次から次へと無限に現れるのです。

今思えば当時の様々な事情が幾重にも重なっていたのでしょう。自分自身の関心もそうだし、フェミ議論ブームの過熱でよりいっそう男女ともに白熱したこと、不満を持つ人がTwitterにハマりやすいこと、おすすめユーザーなどのTwitter側のおせっかい等々……

これでは女性に対する偏見が強くなってしまうと危機感を感じた僕は何とか対策をとろうとします。しかし上手くいきません。男叩きする女性だけを遠ざけて見ないようにTLを整理しようとしても、いつの間にかフェミニズム的な空気はTwitterを全体的に侵食して、フェミニズムと関係無く単に面白いから見ていた漫画家や女オタクなどの女性アカウントですら、突然男叩きツイートを繰り出し始めるような状況へとみるみるうちに変わっていきました。

当時相互フォローだった女オタクがフェミニストに変わってしまった話をします。

その女オタク(以下『女オタク』と呼ぶ)は当時の表現で言うならサブカルクソ女タイプでした、今だとこれも蔑称になりそうですが。ちょっとした毒舌ツイートにセンスがあって面白い人だなと感じていたのでたびたびリプライしたりそれなりに仲良くしていたつもりでした。

たまにポロポロと男オタクへの批判が漏れることはありましたが、最初はそんなに頻繁でもなかったし、割と真っ当に感じるような批判だったのでそこまで気にしませんでした。ところがある時〈某女性声優へのオタク達のセクハラツイートがひどい〉とTwitterで大々的に炎上が起こりました。某女性声優は女オタクの推しであり、その事件をきっかけにツイートの内容が急変。堪忍袋の緒が切れた状態で次から次へとフェミニズム系の炎上ネタを男オタク又は男への批難を交えてツイートしまくるように。
僕としてはツイートの内容に納得のできるものではなく、見ていてとてもいい気持ちはしない方向性になっていきました。声優へのセクハラ祭りに関しては女性でも参加してネタにしている人を観測していたし、僕自身は気をつけていたので『男オタク』と一括りで一方的に批難されることは理不尽に感じていました。

他にも、その女オタクが〈性的表現が問題になって中止されたイベント〉の炎上をRTし、規制側に寄って怒りを露にしていたことがありました。僕はそのイベントが炎上して叩かれているのが内心嫌でした。
(女オタクの好きなサブカルアニメだってこの前表現が問題視されて叩かれてたじゃん、なのに表現規制側なんだ……あれについてはどう思ってるんだよ……)とか女オタクの立場に疑問を感じて裏切られたような気分になりモヤモヤ。

(まさか毒舌系サブカルクソ女オタクとして仲良くしていた人がこうなるとは……サブカルなんて一番フェミニズム的な倫理と相性悪そうなのに……)とか疑問や不満や落胆が重なっていたのですが、ツッコむことは耐え忍んでいました。

やっぱり仲の良いフォロワーだから余計なこと言って傷つけたくなかったし、ストレスを受けて怒ってるわけだから尊重してあげないと……という思いがあったので、気を使ってツイートは飲み込むことにしたわけです。しかし相手に吐かずに飲み込んだ毒は自分の中に溜まってどんどん苦しくなっていきました。
そんな密かな僕の我慢とは裏腹に、その人はその後も女性声優が写真集で水着になれば「悲しい」と嘆く、「美人すぎる◯◯」といったキャッチコピーを付けるメディアが受け付けられないと嘆く、現実生活の人間関係で理解されないことが起こったのか「世の中の人達が女性の人権問題について考えていない!」と怒りだすような毎日。
僕はその人のツイートを見ながら色々と考えさせられていたので「世の中の人が考えていない」と決めつけるようなツイートに(自分の答えと他人の答えは考えてたって違っていくだろ、考えてないって決めつけるなよ……)と限界を感じ、流石に目に余るのでしばらくTwitter自体から離れました。
その後久しぶりにTwitterに戻ると、彼女のアカウントが消えていたのであれからどうなったのか見届けることはできませんでした。


こうして順調にTwitterの空気の変化に飲まれ始めていた僕、そこへ追い討ちをかけるようにフェミニズムや人権問題といった政治的話題の流れは膨らんでいくばかり。
何らかの被害報告を交えたメモ帳スクショ4枚ツイートや白ハゲ漫画、ズレにズレて的を射ない例え話のガバガバ超理論説教ツイートがやたらバズって賞賛される。冷静に見ればただ発狂してるだけのようなツイートでも「女として」「男として」と枕詞に付ければ政治に関心を持って意見している風に正統性が担保される異常な空気。

(性別の壁を無くして平等な世の中にするんじゃなかったのか?なんだこの無限に争いの火種が供給されて男女二元論で自動的に対立構造に置かれる善悪戦争は……)

僕が倫理に押し潰されていく一方、他人はどうだったか。
TLで普段から誹謗中傷やセクハラや女叩き(or 男叩き)や差別発言を繰り返してる人達でも、なんだかんだ恋人やら異性の友達がいたり高収入だったり、自分より遥かに社会的地位が高く誰かから愛されている"社会に適応したまともな普通の人たち"であることが次々と判明していきました。

よくTwitterで目にした論ですが「クズ彼氏の悪口言ってる女性アカウントがやたら多いのも、それだけクズ男がモテてるから」で、それが現実のシステムなのかもしれません。

そんな状況に、フェミニズム系男叩きツイートへの不信感が生じていく。

自分が女性を傷付けないよう配慮し気を使って日々頭を悩ませていることに関しては気づかれもせず加点評価にはならない。
一方、減点に関しては他人の言動の分まで男という性別だけで連帯責任にされしっかり引き落とされるシステム。

女性の本音として流れてくるツイートも精神を蝕んでいった。
「女性が○○と男に言う時は本音は○○だから、察せない男はバカw」

みたいな「女性は我慢して普段合わせてやってるだけで内心お前ら男をバカにしていますよ、それすら気づいていないようだけどw」というマウント交じりの解説が流行っていたのだ。多分アスペルガー関連の話題もこの頃流行っていた気がする。

「女性の気持ちを知って配慮しなくてはいけない」という高い意識を育てられたあげく、それらの悪意をぶつけられることで、過剰に女性の裏を読もうとするようになった。
(もしかしたらあの時もこの時もその時だって、自分は女性から見下されてバカにされていたのではないか!?)と過去の何気ないやり取りまで遡って不安を感じるようになり、女性の言動全てをわざわざ悪意に捉えるような習慣が付いていった。

(自分は今まで人が良すぎたんだ、自分がバカだから気づかなかっただけで、本当は女性からバカにされ続けて精神的苦痛を受け続けてきたんだ。本当はもっと女性に対して怒るべきだったんだ……!!)

今思うとこれはいわゆる「ハッとした」状態だったのかもしれません。Twitterをある程度やったことのある人ならこの「ハッとした」人達を見たことがあるのではないでしょうか?一度「ハッとした」らそこから元に戻るのは難しいでしょう、真理にたどり着いたわけですからね、本人の中では。

「あなたたち女性は差別されてることに気づいていない!もっと常識を疑って被害に気づいて声を上げて怒るべきです!」

こういったメッセージを当時のフェミニズムは広めていたと思います、影響された人も多いのではないでしょうか。

世の中には実際に打算計算や悪意といったものは溢れかえっているので、ネガティブな物の見方って別に100%間違ってはいない。だからこそ一度ネガティブな方向に思考の針を振ってしまうと際限無くどこまででもネガティブになれて、ポジティブな方向に戻すことは難しくなると思います。怒るための理由を探し続ける日々の始まりです。いや、探し続けなくてもTwitterやGoogleがおすすめ機能で無限に持ってきてくれるでしょう。獲物を見せにくる猫のように。

当時のアカウントは残っておらず正確なツイートの記録がないので、自分が実際どの程度の発言をしているかまでは確認できませんが、おそらくじわじわとフェミニズムや女性をバカにする考え方やツイートをする方向性へと、それまで中立ぶっていた頭のレバーが引かれていったような感覚が残っています。そこに中途半端な良心や客観性が批判を浴びせ自己嫌悪を発生させる。

「差別的にならずに相手の話も聞いて尊重しないと……」

「うるせ~~~!相手の話聞いたからってこっちの話聞くわけじゃねーだろ!だいたい向こうがやってることが差別なのに何でいつもこっちが悪者みたいに言われんだよ!死ねボケ!」

という脳内戦争が勃発し空中分解した思考の残骸がぐちゃぐちゃに散らかっていく。しかもぐちゃぐちゃに散らかっているのは自分の脳内だけではなくスマホから見つめるタイムラインのアカウント達も毎日毎日ぐちゃぐちゃドロドロの大戦争。

アニメばかり見ているニートで社会不適合者の自分という劣等感、少しでも『ちゃんとした人間』になりたいという原動力、それを叶えるために有意義な努力がTwitterで流れるフェミニズム的な政治問題に向き合うことだと思ってしまった。

しかし常に産み出され続けるツイートやトレンドによってひとりひとりの苦しみや哀しみや怒りなどネガティブな感情を見続け、ルールの矛盾や改善方法について考え、そんなことをしながら何も得られない、誰からも好かれない自分の人生について考え壊れていくなかで、成長や生き易さの実感なんてありません。

声を上げると言いながら男叩きを繰り返すフェミニズム系の炎上やツイートばかり見続けると「ひとりひとりが問題について考えて、世の理不尽に対して声を上げて怒るべき?ならば、自分だって怒るべきだ!」といつの間にか使命感のような敵意が芽生えていく。実際僕は長いことTwitterしてたくせにフォロワーが少なくて影響力もほぼないような末端のアカウントだったし、チキンなので大して声を上げるようなツイートしてなかったとは思いますが、それでも不満や怒りがツイートに漏れ出るようになっていたと思います。そしてツイート以上に脳内は常に怒りで湯が沸いている状態。

ここだけ語ると自分に関係ない問題に勝手に使命感を感じて怒っているだけのようですが、実際関係は大いにあって、人生が何も上手くいかずオタク向けコンテンツに救われて辛うじて生きながらえているような僕にとって、それらへのフェミニズム系の批判って百歩譲って一理あると認めた上でも内心侮辱的に感じていたし、何より常に規制や謝罪を要求するような社会の流れは、このままだと生き甲斐を奪われるという危機的状況に置かれている焦燥感を発生させました。

始めは「ひとりひとりが嫌な思いせず尊重しあいながら妥協できるラインを探って皆で楽しめる世の中が作れたらいいね」

とBPOみたいな綺麗事をどこかで信じていた。

なのに気づけば「殺るか殺られるか」というバイオレンスな思想に染まってしまっていた。

SNSをやるとエコーチェンバーによって過激化していくことがよく問題視されている。
実際それはある、自分も他人もみんな過激化していると感じまくりだった。

だけど逆に「自分と違う考えの人間を受け入れる」のは口で言うほど簡単じゃない、ストレスによってゴリゴリと精神が削られる。インターネット社会以前ならまだしも、どうしても受け入れがたい、自分とは違いすぎる考えを持った他人を無限に目に出来るインターネットで、人間の精神が削られ続けて歪に変形するのにそう時間はかからないのだと僕は自分をモルモットにして知った。自分と似た考えの人間とだけ接して自分を守ることだって、人間には必要なことだ。ただ現代でインターネットに頼ってそれを実行するのは簡単に度が過ぎてしまう。正しくあろうと自分に厳しくしても、間違ってもいいやと自分を許して甘やかしても、インターネットは丁度いいところに留めてはくれず破滅するレベルまで引き上げていくのです。

Twitterの過激化は止まるところを知らない。

そのうえニートで引きこもりの自分は起きてる間ずっとTwitterを見ている異常な生活でした。カーテンを閉めきった部屋で日の光も浴びず、まともな椅子すら持っていないのでほぼ布団に寝転んで、目を開けている間朝も夜もなくTLが流れ続けているような状態。

コロナ禍のステイホーム期間に精神が不安定になった方も多いそうですが、真人間でも短期間にそうなることを考えると狂って当たり前の習慣。むしろよくもった方なのかもしれません。結果壊れてるわけだから自慢できることでもありませんが。こういった経緯から順調にストレスを溜め続けた僕はついに鬱病だと自覚する状態に。

体の芯から凍りつくような謎の寒気や経験したことのないような恐怖感に脳が支配される明らかに異常な状態。「死」が体に入ってくるような、病気というより呪いの類い。少しだけ観たリゼロでスバルが喰らってたやつみたいな、本来は人生で発生しないはずの現実離れした恐怖。

鬱になった要因はTwitterやフェミニズム関連だけではなく、引きこもりの生活習慣や別の様々なトラウマなどの多数のストレスも重なった結果かなとは思います。だけど話がぶれるし話せないこともあるしその他諸々の個人的な話について今回は出来るだけ触れません。だけどタイトルの事情は自分の中で格別に大きな要因のひとつと認識しているのでタイトル詐欺だと怒らないでほしい。


【報われない努力】

自分が狂っていることを自覚した僕は救いを求めて精神科に。通い始めたのは商店街にある小さなクリニックで、先生は女性。なぜそこに通い始めたのかというと何とか予約がとれたのがそこだった、家の近所にあり限界まで疲弊している自分にとって通いやすい距離だったことが主な理由です。ですが理由は他にもあって、それは

"リアルの女性と関わることにより、ネットで染み付いた自分の女性への偏見が和らぐのではないか?"

という淡い期待でした。


結論から言うとこの努力は裏目に出ることになります。

先生は50代くらいでしょうか。眼鏡をかけどこか学校の先生のような真面目そうな雰囲気。僕は嫌な予感を感じとります。

(なんかこの人、フェミニストっぽくない……?)

第一印象で警戒心バリバリになった僕は初めのころなかなか心が開けず、Twitterの悩みについては話さずにすぐにカウンセリングの時間を終えて帰っていました。

しかし、毎回何も話さず帰っていてはカウンセリングにならない。ある時から勇気を出してネット関連の悩みを相談し始めました。

「アニメとか漫画が好きなんですけど、悪いものとして規制されていくのが辛くて……」

みたいな感じで話を切り出してたと記憶してますが

「ちょっと待ってください、アニメや漫画も全てが悪いものではないと思いますよ?」といった微妙にずれた返答が帰ってくる。上手く伝わらなかったこともしんどいですが何より

(ああ、この人は良い表現と悪い表現を自分の基準で分けている人なんだなあ)と苦手意識が発生。内容の善悪問わずすべての表現を尊いと肯定したがっていた僕はその時点で話すのがより苦痛になってきます。

それでも通っているうちに少しずつ悩みを相談するようになりました。あるとき僕はネットのフェミニズム関係のことを話し始めます。最初は意外にもそんなに悪い結果ではありませんでした。エロの境界線は人によって違うとか男性が女性に関心持つのは自然なことだからとかそれなりにフォローされ、その時は自分が偏見で女性を見てたんだな、やっぱりリアルでの会話も必要だなと思い安心感を覚えた。正直少し女性として好きになりかけていたんじゃないとすら思う。限界まで弱った男に優しくするのは誰であっても危ないということですね、皆さんも覚えておきましょう。

ただこの好意的な状態は長くは続きませんでした。思えばこの時も一抹の不安は覚えていて、カウンセリングの終わりに先生が「女は感情的だと言われたりね」と自分の不満をボソッと口にしたんですね。その時は男女の差別問題について話していたわけだし、やっぱり女性側も色々不満はあるんだな、くらいに好意的に解釈したんですけど、なんとなく(患者のケアより自分の感情を優先してないか…?)という違和感があって、この時スルーした違和感はその後カウンセリングに通い続ける中でより強く感じることになります。

僕の生活と悩みのほとんどはネット関連のことだったので、その後も先生にその時々の色々な悩みを打ち明けましたが、まずネットの話に対する解像度の浅さにイライラするうえ、噛み合わないことが多い。いちいちネットの説明が必要になるうえ、炎上リスクの悩みを話しても「人の噂も七十五日とも言いますし」とか、漫画家がフェミニズム系の人に叩かれてて辛いという話をしても「叩かれてもいいじゃないですか」とか、世の中が自分の望まない方向に規制とか進んでどんどん変わってるのが怖いって話しても「世の中は国民が変えられます」とか、テレビのコメンテーターが〈ひとりで死ね論〉を流すのが辛いと話したら「まあその人たち(コメンテーター)はどこかで刺されたりするリスクも背負ってるしいいんじゃないですか」とかそんな感じ。(なんか、そういう問題か……??)と思うことが多かった。

「外国では表現規制がひどくて社会的に裁かれてる人がいて、日本も表現者が殺されるような社会になったら嫌だ」って打ち明けたことがありました。その時は僕も結構本気の恐怖心を感じて切実に相談していたのですが

「まあ社会が止めても表現は止められるものでもないし書きたいなら殺されてでも書けばいいんじゃないですかw」

って感じの鼻で笑うような言い方されて当時は絶望感に打ちのめされました。別に間違ったことを言ってるわけではない、極論というか究極的には殺されてでも書けばいいってのはその通りです。ただ表現者が殺されていく現実や未来が辛いって話す鬱患者にこんな言い方する……?これカウンセリングだよな?治療だよな?

どんどん僕の中で先生への信頼感が無くなり、ストレスは大きくなり、症状は悪化しがちになりました。

先生は僕の意見に対して「ちょっと待ってください!」と遮って「私はこう思いますけど」と反論したり、自分の意見を言ってくるタイプでした。否定されたと感じることもありました。その割には僕が反論しようとすると「あなたとここで議論する気はありませんけど」と勝手に話を切り上げたり。

決定的に嫌だった対応の覚えがあります。
幾度となく繰り返されるフェミニストや女性団体のクレーム問題をTwitterで目にしすぎて鬱憤が溜まっていたから、今思うと僕の語り方も感情的だったのかも知れませんが、そういった不満を漏らした時に「フェミニストはネットで吠えてるだけではありませんよ!私も以前そういった団体に関わったことがありますが然るべき手順を踏んで正当にクレームを入れていて~」と強く叱りつけられたんです。
(なんだよそういう団体って……やっぱそっち側の人なのかよ……)と納得するような裏切られたような複雑な内心になりながらも「でも電凸攻撃みたいな手段で圧力をかけられたって話も目にするんですけど」と反論すると「まあそういうのは私もどうかと思いますけど、兎に角~……」と僕の中で重要な不満や疑念はふわっとした回答で流して終わらせ話を変える。

前々からヒリつく瞬間はあったのだ。ネットの事情に詳しくないわりに「SPA!の記事についてはどう思いますか?」って確認してきたり、宇崎ちゃん問題は知っていて「まあポスターは目に入るものだからベタベタ好きに貼られてもねw」みたいな小バカにしたような言い草してきたり、上野千鶴子氏の祝辞についてぼやけば「でも言ってる内容は間違ってなかったでしょう?」と真っ先に前提を誘導してきたり、表現の自由について話せば「まあ私は女性をモノのように扱う表現はどうかと思いますけど」と僕が好む表現が何なのか確認もしないうちに自分の嫌いな表現を表明してきたり。



通い慣れ、話慣れていくうちにお互い遠慮がなくなっていったところもあったのだろう。僕の意見に対して明らかに怒ってますよね?今バカにしましたよね?と思う態度が増えていく。

散々自分の意見をぶつけてきて「まあ私も熱くなりやすいタイプなので今日はこの辺にしときますがw」
とか言う時もありました。


先生の態度について悩むと(これで僕が「女性は感情的」という結論に至ったら、僕が女性蔑視の差別主義者扱いになるのか……)と想像して余計に落ち込む。
なんとなく、先生は僕の意見に内心ボロカス言ってやりたいと思いつつ、患者だから手加減したうえでこのくらいの態度なんだろうなと推測できます。

カウンセリングを重ねるうち、だんだんと先生の価値観がわかってきます。
「ネットや匿名性はゴミだと思っている」
「ネットは影響力もたいしてない、テレビは影響力がある。」
「顔出しで意見を言うのは偉い」
「政治は意見すれば変えられる」
「男やオタクの性については認めないのは差別的…ということに人権上なってるのでまあ、あっても"仕方ない"ことだよね」
こんなところでしょうか。
僕はこのデータを元に先生を試して観察するようになりました。

結果としては、自分の正直な苦しみを言うと先生に理解されず説教されるんだろうなと思う時は案の定で、先生はこういうこと言うと喜びそうだなと、あえて自分の感覚とは逆のことを言ってみるとニコニコしていたり、大体予測通りにカウンセリングは進みました。
ある意味コミュ力は上がったのかも知れませんが、自分の本音は言わない方がいいという諦めの思いは強くなりました。
世間の真人間はこんな神経を磨り減らすコミュニケーションを続けながらコミュ力を上げて正気を保っているのでしょうか、だとしたらそりゃあニートや引きこもりやコミュ障に普段から社会経験でマウントをとって憶測で人格批判してくるのも頷けます、あなたたちは偉い!

いつの間にか毎回イライラを増幅させながら帰り

(今度行くときは論破したい、ちゃんと言いたいことや返しをまとめておかないと……)

なんて戦闘体勢に移行している自分に気づきます。カウンセリング受けに通ってるんじゃないのか。辛さを癒すためで議論しに行ってるんじゃないだろ、これじゃTwitterと一緒じゃないのか、もはや金かけて足運んでる分Twitterよりなお悪いんじゃないのかと感じ始め、とうとう通うのを中断しました。

後から知ったことですが、そもそも女性の患者が大部分を占めるクリニックだったようです。レビューを見ると「落ち着いて話を聞いてくださり薬も少なめでとてもいい」といった感じの肯定的な評価が主。ですが一件「偉そうで『そんなことで悩むんですか?』みたいな態度で話す気がなくなった」といった感じでかなり憤慨してる人を発見。(文章は特定を避けるため少し変えましたがこんな感じの内容)

アイコンや文章からおそらくかなり若い女性だと思われるのですが、多分この人は僕と似たタイプだろうな……と感じました。

これは印象論ですが、多分あの先生は地域の主婦の心の疲れをとることには長けているんだと思います。ただ、現代的な文化やそこから生じる悩み、SNSやオタクやサブカル、メンヘラストロングゼロぴえん的なインターネット社会などに関しては全然理解していないし勉強する気もそもそもなさそう。Twitter民とはとことん相性が悪いタイプかなと思います。

ルッキズムが度々物議を醸す現代、見た目で人を決めつけるのは良くない。たしかにそうです。見た目しか判断基準がなければ見落とすことも多いし差別的にもなるでしょう。ただ、経験や美意識、第一印象、直感などから来る拒絶反応っていうのも案外バカにできないというか、生きていくために必要な部分があるのではないかと感じました。

まあ僕は頭のおかしいメンヘラなので被害妄想な部分もあるだろうし、僕の記憶を元にした話なので、もし先生がこれを読んだら「そんな態度とってない、そんなこと言ってない!」と怒られるかもしれません。

同時期に市の人権相談に行ってみたことも。ここでも相談員の方は女性。対応は精神科より全然優しく話を聞いてくれるように感じましたが、ここでも予想と現実の間にはギャップがあります。僕の中の勝手なイメージで、人権の専門家として最新のニュースにも人権に関する基礎知識にも優れていて何か現状を打開するとても有意義なアドバイスが貰えたりするのではと期待していたのです。しかし、現実にはネットで日々議論されていること自体知らない様子。考え方の違いも浮き彫りになります。Twitterの凍結基準に関する不満を漏らすと「まあ私達も何でこの差別発言が申請しても消されないの?って思うことありますしね~」といった感じなので(あっ、そういうパトロールして問題発言消したりする側なのか……)と溝を感じます。女性の性的扱いが問題視される話に関しても「でもテレビでも格闘技の大会に露出の多い女性がアシスタントで出たりしますよね~」みたいな。「そうですよね~」と答えながら頭の中では(それ言い出すと格闘技自体暴力の肯定だとか怒る人もいるかもしれないしこういう人ってレースクイーン潰すことには肯定的なのかな……)とか勝手に拡大解釈する自分の嫌な面が顔を見せ始める。表現の自由に関しての話をすると「私も最近勉強したりしてますけど難しい問題ですよね~」という何ともふわっとした感じで(えっ……最近勉強してるの……?僕より遥かに詳しいだろうと思ってたのに最近……)と完全に混乱。つい宇崎ちゃん問題について話してしまった時には「興味があるので調べます」と言われ(しまった……自分のせいで規制派が増えたらどうしよう……)と重い責任を感じ不安材料が増える羽目に。

相談を終え、(話を聞いてもらってありがたかったな……)と思う気持ちと同時に(ネット以外の世間ってみんなこんな感じなのか……?)と自分の話の伝わらなさに愕然とすることに。

精神科にしろ人権相談にしろ実際に話して感じたことは、専門家として活動する立場の人が特別専門知識に詳しいわけではないしネット慣れもしていなければ最新情報も押さえていない。何より感じたのは"人権"や"蔑視"というのは女性やLGBTQなどの社会に選ばれた弱者の問題という前提で、その人たちに対する差別をなくそうという仕事であって、それ以外の人達の事情についてはそもそも眼中にないのではないかということ。オタクがいくらコンテンツに人生を救われかけがえのないものだと感じていても、興味のない人にとっては世の中から無くなっても困らない、むしろ傷つく人がいるなら無くなってもいいんじゃないか程度の認識なのだろうなということでした。

もちろん別の様々な精神科や人権相談に行けば色んなタイプの人に出会い認識も変わるのでしょう。ですが僕の経験として実際に得たのはこの印象でした。

まあ、ここまでネット知らなくても生きてる人がこんなにいるならそんなに影響気にしなくてもいいのかもな……自分の考えるほど世の中は嫌な方向には進まないのかも……

と半ば無理して楽観視し始めますがそれは一瞬の油断でしかありませんでした。突然コロナ禍のステイホームが世の中を変え、SNSをはじめとするインターネットの影響は急拡大、ネット社会は一気に次のステージへと駆け上がり、もう逃げ場なんてどこにもありません。希望的観測は一切当たらないのにネガティブな予測だけはよりネガティブさを増して現実になる人生。
心配事はほとんど現実にならないなんて誰が言ったのか。

ま、まあ、コロナってでかい人類共通の問題があれば他の暗い話題は影を潜めるでしょ……と自分を守ろうとするも現実は

「女性蔑視した芸人を二度とテレビに出すな!」「不倫した芸人は許せない!不快なので二度と見たくない!」「コロナ禍で女性たちの厳しい現実が浮き彫りに……」


毎日毎日どこもかしこも僕にとって聞きたくも考えたくもないニュースばかりが流れ続ける。

(わかったよ、考える、考えるから、ちょっと待ってくれ、まず休ませてくれ、鬱を治したら考えるから、待ってくれ、頼むから今は待ってくれ……!)


脳も体も休めるべきだということは分かっていた、だけど社会は僕に合わせたペースで進んでくれるわけではない。コロナの世の中はまだまだ僕を追い詰めるように動き、実際に僕はどんどん追い詰められていた。

この時期はもう正しいか正しくないかとかどうでもよくて、とにかく女性を扱ったニュースを流してほしくなかった。女性活躍やジェンダーフリーなど、ポジティブな方向のニュースですら男性である自分を排除しようとしているように感じられ、焦りや怒りや悲しみといった感情を自動的に呼び起こされ、気づけば粗探しばかりするようになっていた。パブロフの犬のような状態。昔の自分ならきっと疑いもなく「社会が前に進んでて良いことだね」と受け取っていた気がする。だけど一度植え付けられたイメージは自分だけでは拭いされない。
「声を上げる強い女たちによって、弱い男は喉を裂かれ声も出せずに、塩をかけられたナメクジのように苦しみにのたうちまわり死ぬしかないのだ、そしてその姿を嘲笑われるのだ」
という恐怖のビジョンが頭に浮かび精神を焼き焦がそうとする。

どんなに願っても人権や性やSNSの話題からは逃れられなかった、Twitter見るのをやめたってテレビも雑誌もネットの話題を拾いあげ続けた。コロナ禍以前からその流れは強かったと思いますが、コロナ禍で独自のコンテンツを作るのが難しかったこともあったんでしょうね。

この時期わずかな時間であっても気分を落ち着かせてくれたコンテンツを思い出すと、戦う度に服が破けたりパンツやおっぱいがバンバン出てくる某バトル漫画でした。

「無駄なエロ」「安易なサービスシーン」とか批判されがちな作品。だけど何も考えずに読めるエロシーンの連続だからこそ鬱で何も考えたくなかった僕は救われてたんですね。社会問題や他人の怒り憎しみ哀しみとかについて考えたくなかった。ひたすら綺麗な絵の女体を見て迫力のある暴力シーンを見て……って単純な表現を受け取る繰り返しが、しがらみばかりの現実から解放されリラックスできる貴重な時間でした。

もうひとつ、YouTubeのえっちな音声作品も良かった。

「何も考えなくていいよ、男の子だもんね、ただ気持ちよくなればいいんだよ」

と女性の甘い声で優しくひたすら無条件の肯定を与えてくれる。非現実的な台詞、状況。

こういったエロコンテンツは批判されがちです。
「男に都合よく描かれた女性像」
「女性の性を売り物にしている」
といった感じに。

ですが現実の女性から常に「男は気持ち悪い」「私達がお前らに傷つけられていることについて考えろ」と怒りをぶつけられ続ける現代において、僕のような孤独な男が女性から肯定を受けるには商品を消費するしかありません。一般的なまともな男性はもしかしたら妻や恋人、あるいはセフレなんかから日々肯定を受け性的欲求を解消しながら健常な精神を保っているのかもしれませんが、僕には生涯実行し得ないルーティンです。

いくら瞬間的に救われたところで、現実が非情なことに変わりはありません。
鬱の僕を救うこれらのコンテンツも、社会の良識からはNOを突きつけられる。
漫画はアプリで読んでいたのですが、女体に白や黒のぼかしが入れられ、YouTubeのえっちな音声はBANされていきます。

自分を救ってくれるコンテンツに限って消されていく、これはもはや僕自身に対して消えろという社会からのメッセージなのだと鬱な思考の波が打ち寄せてくる。


僕は元々アニメ・漫画・Vtuber・お笑い・ドラマ・映画・イラスト・小説・グラビアなどの主に観賞系の趣味があります。ですが現代でそれらのコンテンツはどうしても僕が避けたくて仕方ない女性の生き辛さ、ジェンダー、SNSなどの要素とどこかで結び付いてしまうんですよね。流行りのテーマとしてそれを主軸に置いてる場合もありますし、昔の作品を見ても「今だと問題になるな…」とか「このVtuber発言で炎上したのか…」とか「この芸人のネタで笑ったら差別になるのかな…」とか。

こうなると気持ちよく安心して気分転換するのってほぼ不可能。

「やめろ、俺の嫌いな要素を出すな、安心して楽しめるものだけ流せ!」

そう思ってしまった瞬間、脳内の架空の"世間の女性達"がニタッと笑って鬼の首を取ったように囁くのです。

「嫌なら見なければいいじゃない」

Twitterも長期間辞めていたのですが、やっぱりどうしても使ってないと不便なことがあったりして一応アカウントを作り直したんですけど、以前のようには使えず鍵をかけてとにかく他人と関わらないようにしています。

これ以上人に嫌われるのも嫌いになるのも嫌で、コンテンツ以上にTwitterでは他人が僕の望まない発言を望まないタイミングで流してくるので怖いんです。今では特に女性を気軽にフォローできない、僕が聞きたくない話題を出す確率があまりにも高いので。

この間も(面白い作品を作るなあ~)と注目していた女性のVtuberが女性問題についての政治発言をし始めて非公開リストから外してしまったことがあります。もうそのVtuberの発言が正しい正しくないとか関係なく、その手の発言をするだけで怖くて鬱がひどくなり体が動かなくなるほどストレスを受けてしまうのでそうするしかなくて。でもこうやって目を逸らす自分は女性蔑視野郎だとまた白い目で見られるんだ、好きな相手すらそんなことで嫌いになれるんだと自己嫌悪が発動。見たくないものを見ない権利を発動した結果、見たくない自分の一面を見てしまう。

好きなものがひたすら流れてくる楽しかったTwitterは過去のものになり、好きなものすら嫌いになってしまうことに怯えながら薄目で見るような消極的な使い方になっていった。
しかし社会はあらゆるところから僕とは逆行した考えを押し出してくる。

「これからはSNSを活用しないと生き残れないぞ、個性を発揮してフォロワーを増やせ」と。


どんな人でも生きやすい時代を作るんじゃなかったのか。SNSの空気を読み続けて人気者にならないと生きることすら出来ないのかよ。

社会が理想通りじゃないなら自分の理想を作品にすればいいのではとイラストの練習を始めたりもしました。

だけど女性の描き方を調べたとき、影の入れ方やポージングやアングルによってセクシーさを強調するテクニックが紹介されてるだけで(これを実践したら性的搾取の女性蔑視のイラスト描きだって炎上するんじゃ…)(こういう描き方のテクニックがあるってことは宇崎ちゃんのポスターを批判した人間が正しかったってことなのか?)とかグルグル嫌な一人会議が始まってストレスが脳から身体に侵食し動け動けとシンジ君みたいになりながらまったく指先が動かない、結果諦めてなんで絵の練習すら出来ないんだと自分を責めながらジアゼパムやデパスを飲んで布団に横になり泣きながら症状が治まるまで必死に耐える辛い時間になったりしていました。


一応、上野千鶴子氏の本を読んでおこうとしたこともありました。自分と違う意見にも目を通さないと議論する資格もないだろうという意識から行動したのですが、主張を理解できるかどうか以前に自分に教養が無さすぎて何について話してるかの時点で躓いてしまいまともに読めませんでした。話のテーマになってる昔の時事や哲学者の著書などがさっぱり知らないものばかりだったわけです。僕はまともに勉強もしてこなかった低学歴無職、片や向こうは東大教授ですから考えてみれば当たり前の差。
たとえ意見に反対したくても、そもそも知識量や社会的地位で同じステージに立っていないという現実。
こうして影響力のある女性がどんどん社会を変えていき、自分のような無能な人間は邪悪な男性性を持つ者として、今後は駆逐されていくのだろうな……という絶望だけが残る結果に。

自分が毒ガス室に入れられ殺された挙げ句「危険人物を死刑にしてくれてありがとう、生きやすい世の中を作ってくれてありがとう」と女性たちがパレードする様子まで脳裏に浮かんでくるように。
完全に被害妄想ですが、実はこの妄想の元になった女性のツイートが実際にありました。特定を避けるため引用はしませんが、僕にトラウマを植え付けるには充分なものだったようです。

まあ、あながちこんな妄想も近い将来あり得なくはないかもしれません。現在ですら、炎上ひとつで誰かを「社会的に殺す」行為は、エンタメ的見世物としてインスタントに消費される世の中ですからね。一人で死ね論が一定の支持を集める国だし、考えすぎだよと笑えるほど今の日本は社会不適合者に優しくはないんじゃないかな。

いまや調子が悪いと「女性蔑視」やらの単語を見るだけでも脳が過剰反応し著しく気分が悪くなり日常生活すら困難になり抗不安薬無しでは正気を保てなかったり。本当にひどい時は「女性」という文字すら怖い。さんざん白い目で見てきた『表現を見て悔しくて震える人たち』とほぼ似たような状態に。あの手のツイートが本当か嘘かは僕には判断出来かねますが、精神的トラウマから来る過剰な拒絶反応って健常者の想像を絶するレベルなことだけは間違いない。
こんな感じで、Twitterでフェミニズムの影響を真正面から受け続けた僕の末路は、YouTubeの漫画動画がやりそうなインスタントな皮肉オチになりました。この動画が面白かった方はチャンネル登録と高評価おねがいします。

【憎しみと虚無のトンネル】

拝啓 考えた方をアップデートされ続け人権社会に適応している真人間の皆々様は現代をどのような時代と感じておられるでしょうか。

「それぞれが好きなことを好きだと堂々と言える社会」になったでしょうか?「ひとりひとりが声をあげられる良い時代」になったと感じておられるでしょうか?僕の情報に間違いがなければ、"人権"というのはどうやら"ひとりひとりがその人らしく生きていけるために保障されている権利"らしいです。その人権が重要視される社会になってから、僕は心の底から好きだったものすら楽しめなくなりました。自分の性別を恨むようになりました。異性を憎むようになりました。

なんてね。こういう嫌みったらしいこと言ってると自分がいかに世の中のまともな人間像より劣った人格破綻者なのか自覚してしまいます。自分が最も忌み嫌って馬鹿にしていたTwitter論敵の人物像に輪をかけたような最低レベルの人間性。どんなに御託を並べて自分を守ろうとしたところで客観的に見れば他人を不快にさせて反省も出来ないクズでしかない。

人権について努力して学べば自分も"ちゃんとした普通の大人達"と同じように社会から認められると期待してしまった。しかし狂人の卵が普通の人になろうと努力しても、狂人としての覚醒を促すだけでした。無理なんですね、椅子に縛り付けられて電流を流されようが、脳ミソをメスで弄くりまわされようが、社会が求めるまともな人間にはなれない、手遅れなんです。

「自分の考えを持ちましょう。」「問題に気づいて声を上げて怒りましょう。」と社会は色々強要してきます。強要してきますが、自分の考えを持って他人とズレて排除されても、怒って声を上げて嫌われてヘトヘトになっても責任を取るのは自分です。強要した側が何かを保障してくれるわけじゃない。

現代は他者の気分を害することが重罪になった世の中だと思います。他者の気分を害さないためには配慮を怠ってはいけない。ではその配慮に正解はあるか、配慮出来る人間になろうと努力すれば立派な人格者に成れて周りから称えられるでしょうか?

現実が僕に下す評価は散々なものでした。

親からは「子供の頃は優しい性格だと思ってたけどそういう部分が無くなった」と言われた。

長年一番仲が良かったフォロワーからは「もっと人の気持ち考えてほしかったな」とリムーブされた。

精神科では「感情に対して感情で返しても何も生まれない」とか

別の精神科では「自分のことだけ考えてはいけない、昔オウム真理教ってあって~……」って話をされた。

自分の趣味とか存在とか散々否定される世の中でそれでも他人について知ろうと努力して矛盾する主張に頭を悩ませて腸煮え繰り返るようなこと言われてても堪えて他人に気を使い続けて心を病んだ結果周りから受ける評価は……

《自分のことしか考えてない感情的なバカ》


という現実の前に、生きていける自信を失ってしまいました。もはや心が折れたどころか砕け散ってしまった。人権だの多様性だのジェンダーだの自殺だの、日々社会が騒いでる重大なはずの問題を前にしても、空っぽの冷凍庫を見つめているような無機質な虚無感に支配される感覚を覚えることが多くなった。

人生のもしもの別ルートなんて考えても無意味ですが、他人の言葉に耳を傾けたりせず、誰かに思いやりを持とうなどと余計なことを考えず、自分の好きなようにアニメを見たりエロコンテンツを使ったりしながらへらへら過ごしていればこうはならなかったんじゃないか。こんなに他人を憎んで他人に憎まれて、楽しめることすら無くなって壊れることはなかったんじゃないかと後悔に支配され、失った時間や感性に目を向ける度に喪失感を味わっている。

女性について散々考えてきたけど今となってはほんとに何だったんだろう、もはやわけがわからなさすぎて怖い。

あれだけ「男が嫌いで近づきたくない」って四六時中Twitterで騒いで揉めてたり、結婚についてのネガティブな話流してた割に、コロナ禍でソーシャルディスタンス強要してる時期にマッチングアプリが流行ったり、結婚のニュースが相次いだり、それを祝福する流れ(しなきゃいけない流れ)が出来てて意味わからんかった。社会不適合者の僕はお手上げです。考えたって無駄だって実感した。僕は異常者でまともな人たちとは脳みそが最初から違うんだから、みんなが何考えてるか何が求められてるか、何が本当で何が嘘かを理解して社会に合わせて生きるなんて無理。それが無理だから僕の生きやすい時代も一生来ない。



最近通っている心療内科(以前とは別のところ)で「抽象的な社会としか関わらずにリアルで人間関係が無いのだいぶ危険だから訪問看護とか受けつつ人間関係作った方がいいぞ」という旨の注意喚起をされました。自分のような存在は世の中のまともな人間達と関わらないようにするべきだ、それが世の中にとっても自分にとっても最適解だと思っていたのですが困りましたね。社会からの排除対象になっているのに社会と関わらないことを責められているような気がしてしまいました、そんな意味で言ってるのではないことはわかっているんですけど。

色々と自虐的なことを書いたので気が滅入ってしまった方もいるかもしれません、たまに他人の自虐に共感して落ち込んでしまう人がいますが、飽くまでこの記事は僕のことでありあなたと僕は違いますよと言っておきます。共感に殺されるな!

まあ色々愚痴愚痴言ったけど人権は矛盾してても必要な概念だと思います、100%守ってくれる最強の盾じゃないとしても無いよりはあった方がいいでしょう、きっとあなたを守ってくれます。"公共の福祉に反しない限り"という制限付きで。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

嫌みったらしくだらだらと他人に対しての憎しみばかり書いちゃったけどこんな記事を最後まで読んでくれるあなたのことは大好きだよ!

……ちゅっっっ(セクハラオチなんてサイテー!)



あとがき


バンダイチャンネルで『キノの旅-the Beautiful World-』というアニメの『人の痛みがわかる国』というエピソードが無料だったので観たらとても感動しました。昔の方のアニメですね。学生時代にも原作小説で読んだことのあるエピソードだったんですけど、大昔の作品なのにまるで現代のインターネットや人権社会を皮肉ったんじゃないかっていうくらい先見性のある鋭い話で、この記事で書いたような現代社会に対するストレスを感じている人にはおすすめの作品なので是非観てみてください。
やっぱり創作のプロは難しいテーマを描くのも人に伝わりやすく心に残る作品に昇華出来るので本当に尊敬します。
こんな駄文を書いてる人間からすると足元にも及ばないとはまさにこのことだなと痛感。


さて、ここからは「あとがき中のあとがき」この記事についての言い訳タイムになります。

本当はフェミニズムや人権関連の掘り下げた個別の話題(生理だとか風俗だとか)についても自分の考えをメモしていて、ここに含みたかったのですが割愛しました。
量が多いし、あんまり適当なことや個人的な恨み辛みだけで本質からズレること書くわけにもいかないしな~……と悪戦苦闘しながら編集は続けているので、もしかすると後日upするかも?(しないかも……)
そっちもまた興味があれば宜しくお願いいたします。


この記事を読んで「話、古ッッ!」と思った方もいると思うので改めて言い訳を……

この記事は前々から下書きだけひたすら貯めてたんですが、鬱の不安定な中でこの内容を纏めあげることがなかなか出来ませんでした。編集が長期間に渡ってしまったことで書いている最中にも心境が色々とぶれてしまってる。一応書き始めた頃の鬱思考を大事に形にしたつもりではあります。なので今読むと自分自身読むのがキツイ部分もあったりします。
特に精神科医や人権相談員の人にVtuberについて説明したりしてたの思い出して恥ずかしくてうわあああって頭抱えるレベルなんですけど、知らんやろっていう。
だけど、今考えても現代の心の病みを語る上で「バーチャル、ガチャ、ジェンダー、SNS、炎上、表現の自由」とかその辺ってかなり頻出するテーマだとも思うので、素人ならともかく精神疾患や人権について専門的な立場の仕事してるならめちゃくちゃ詳しくなくてもいいからある程度の把握はしといてくれよ、じゃないと悩みの本質に辿り着かねえよ……身も蓋もない言い方すれば「話にならねえよ」とは思っちゃいます。カウンセリング受けに行ってる立場なのにインターネット事情についての授業から始めないといけなかったのやっぱどう考えてもおかしいだろ……。


このあとがきを書いてる日、Abemaでニュースを見ていたらTwitter社がイーロン・マスク氏関連でゴタついてる話について扱ってて「トレンドが操作されてたことに気づいた人達が騒いでる」「日本はニュースもTwitterに依存しすぎていたのではないか」みたいなことを話していました。それを見てると(この記事まとめるタイミングほんと遅すぎたなー……)という後悔を感じたのと同時に(世間は今さらこんなこと言ってるんだな、自分は間違ってなんかなくて他人より考えるのが早かったのかも)なんて生意気な考えも浮かんできました。まあ他人より早く問題について悩んだことで病んでしまって記事上げるのが他人より遅いなら世話ないですけどははは……笑

あとはTwitter社の人達が急に解雇になって大変ってニュース見て
(こういう話以前どっかで見たな……?)
と思ったら、以前自分がTwitterにいきなり説明なくアカウント凍結されたのを重ねてただけでした。複雑な気分ですね。

本当にここまで読んでくださった方ありがとうございました!そしてお疲れ様です!
僕は二度と読みたくない!疲れる!しんどい!寝たい!ということでまたそのうち……さよなら~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?