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僕の記憶 第十二話 優しさ

 そして頼子と別れると僕は職場に戻った。今日は午後一で手術が一本。回診が一回。それと持ってきてもらった論文資料の提出。追われるばかりだった。
 帰ると頼子はマルと一緒にリビングから顔を出した。今日は僕の好きなハンバーグを作ってくれていた。頼子と話していると、頼子のスマホがなる。
「はい、久しぶり真理! ごめんね。急に連絡して。元気だった?」
と言うと楽しそうに話をしていた。
 僕は聞きながら食事をとると自分で洗いものをして頼子の分のコーヒーを作っておいた。ようやく電話を切ってリビングに戻ってくると、頼子の顔は暗かった。
「どうしたの?」
「あんなに幸せそうだったのに、今は離婚の危機だって」
「あら、今日言っていた子?」
「そう、まったく、真理ったら」
「休みの日にでも会いに行って来たら?」
「それがね、会いに来るって言うのよ。びっくりしちゃった」
「大丈夫なの? 子どもがいるんじゃないの?」
「それが、良いみたいよ。子どももまだ小さいし、待機児童だから自由が利くのだって」
「そう、で、いつ来るの?」
「私の休みが今後一か月後に三連休がもらえるらしいからその日かな」
とカレンダーを見ると僕も休みが重なっていた。
「僕も休みだ」
「あら、でも迷惑じゃない?」
「全然、平気だよ。ホテルとか取る? それともここに泊る?」
「そうね、ホテルを取るわ。ちょうど宿泊券をもらったから」
と言って頼子が取材をしたホテルの宿泊券を取り出した。
 一か月後、もう夏も終わりに近づいていた。僕と頼子はホテルが近い品川駅に真理さんを迎えに行くことにした。
「子連れだと大変かしら?」
「そうだね。だけど平日だし」
そう、頼子も僕も平日にしか休みが取れず、それに合わせてもらうと品川駅もある程度の好き具合を見せていた。すると遠くのほうからこちらに手を振りながら走ってくる人影が見えた。
「真理だ! 真理。こっち」
と頼子も手を振る。だが、横に子どももいなかった。
「久しぶり、頼子。元気だった?」
「元気よ。真理も元気そうね。あら? 今日子どもは?」
「それが……後で話すわ。それより」
と真理さんは息を切らしながら僕の顔を見上げた。
「あっ……誰にも言っていなかったんだけど、今、お付き合いさせてもらっている黒川智也さん」
「はじめまして、黒川です」
「えっ! あっ、頼子の友達の吉川真理です」
と言うとちらりと頼子のほうをみて
「頼子、いつから?」
と脇腹をこつく。
「良いから、ほら、お腹すいてるでしょう? ホテル、用意したからとりあえず行こうか」
「私のために?」
「そうよ! 楽しんでもらいたいし」
と言って微笑んだ。
 ホテルにチェックインするとホテルにあるレストランで僕らは昼食を取ることにした。
「旦那さんと何があったの?」
「それがね、私が前の職場に復帰したいって言ったのよ。そしたら急に怒ってね」
「そうだったの」
「急に怒るだけなら、ただの喧嘩だと思ってたんだけど、両親が出てきて『離婚しろ! こっちで子どもは預かる』って言いだしてね」
「それは……ひどいわね」
「私の自由ってどこにあるんだろうって思って。確かにあの子は大切よ。でもどうしても仕事がしたいの」
と泣き出した。
 頼子は真理さんの肩をさすりながら
「でも離婚って決まったわけじゃないし、きっと向こうのご両親も一時の感情で言っているんだと思うわ」
と言うと頼子は微笑みかけた。
「頼子、私ね。ずっと仕事を続けていきたいと思ったの。だけどあの子が生まれたとき、すごく嬉しかった。だけど今は、この子がいなかったら自由だったって思ってしまうの」
という真理さんに頼子は悲しい顔をした。
「真理、疲れてるんだわ。後四日もあるんだし、今日はゆっくりしましょう。部屋で話を聞くわ」
と言って頼子は真理の肩を抱きながら部屋に行く。
「智也、ごめんなさい。今日は真理に寄り添いたいの」
「そうだね、僕は先に戻っているよ」
と言ってその場を後にした。
 真理さんはきっと自分のことで頭がいっぱいなんだ。頼子が子どもが産めないことも知らないのではないだろうか。
 僕はそう思いながら電車に乗り込み、家路についた。
 頼子は夜中に家に戻ってきた。
「頼子、お帰り」
「ごめんね、遅くなりました。ようやく眠ったの」
「真理さん、大変みたいだね」
「そうね、でも……」
と言いながら遠くのほうをみた。
「でも?」
「ううん、何でもない。ないものねだりなのよね」
と微笑む。
 やっぱり頼子は子どものことを気にしているようだった。
「お子さんのことを考えると夫婦は一緒に居たほうが幸せなんだけどね。こればっかりはね、何とも言えないわ。それに旦那さんは浮気をしているらしくて、離婚しても子どもの面倒を見る人もいるそうよ」
「そんな……ひどいね」
「でもね、これは真理だけの話を聞いて私たちが解釈しているだけだから、向こうの意見は分からないものね」
と言った。
 いつも冷静に人の意見を見極める頼子に感服する。
 次の日、頼子が真理さんに電話をするとけろっとした感じで電話に出たという。
「気持ちが治まったんじゃないかしら」
「そうか、じゃあ迎えに行こうか。今日は浅草見物って言ってたし」
「そうね、今から行きたくてワクワクしてるって」
と言いながら頼子はピアスをつけて、ネックレスをつけている。そして口紅をすっと引くと僕らは外に出た。
「晴れてるわねぇ~」
「良い秋晴れだね」
と言いながら電車に乗り込む。
「それよりも真理さんは何の仕事をしていたの?」
「ああ、映像プロダクションに勤めてたわ。私と真理は高校の時からの同級生で二人とも音楽が好きだったの。それで、真理はアーティストのPVを制作したいってことで大学もその方面に行ったわ」
「じゃあ夢が叶ってそういう仕事に就いたけど、今は家事や育児があるから辞めたんだね」
「私は産休、育休を取得して復帰したら? って言ったのよ。でも子どものことを考えたらって二人で決めたらしいから」
「じゃあ、その頃はとても仲が良かったってことか」
「そう、私が東京に行く事になって挨拶にお家に行ったのよ。その時はとても仲睦まじかったもの」
と言っているうちに待ち合わせ場所についた。
 待ち合わせは浅草駅の改札を出たところにしていた。
「まだ着いてないようね」
「道に迷ったかな?」
「いや、大丈夫でしょう」
と言っていると改札の向こうから声がした。
「お待たせ!」
と言って真理が手を振っていた。
「頼子、昨日はごめんね」
「良いのよ。どう? 気持ちは治まった」
「うん、今日のことを考えたら楽しまなきゃ損だと思ってね」
と笑っていた。昨日の悲痛な顔が嘘みたいだった。
「良かった。じゃあ行きたがってた『ブラジル』に行こうか」
と言って僕らは進みだした。
 『ブラジル』は昔からある喫茶店なのだが、レトロ感がとてもよく昔ながらの味を保っている。僕らがテーブルに着くと、おしぼりと水が出てきた。
「頼子、なんか見違えたね」
「そうかな?」
「そうよ。仕事楽しいでしょう?」
「そんなことはないわよ。毎日、何かしらに追われているし、家でも仕事三昧」
「ほほう、でもこんな素敵な彼氏が出来て。そう言えば三好先輩のお葬式にも」
「そうなの、彼は三好の後輩にあたるの。ずっと三好のことを見守ってくれていて」
「へえ、じゃあお医者さん?」
「そうなの」
「そうなんだ。良い人そうで良かった。頼子のことよろしくお願いします」
「ちょっと、お母さんみたい」
と笑う。
 頼子の顔は少し昔に戻ったような顔だった。
「高校の時はよく夏フェス行ったり、お金貯めてライブに行ったりしたわよね」
「そうね、祖母に何度も怒られたかしらね」
「そうそう、田舎だから電車の本数も少なくて、結局終電だからね」
「真理の家はそう怒る家でもなかったけどね」
「頼子のばあちゃんはうるさいんだって」
と笑う。
 確かに頼子の祖母は頼子のことを最愛だと思っている。
「でも最近はフェスにも行かなくなったな」
と寂しそうに真理さんは話した。
「前はね、会社の人とPVを取ったアーティストのライブやフェスには必ず顔を出してたし、それなりにチケットもらったりしてたの。でも仕事辞めてから、とんとなくなってさ。それは寂しいもんなのよ。心にぽっかり穴が開いたって感じ」
「でも復帰するって言っても大変なんじゃないの?」
「確かに。だってね、もう時代も変わっているし、使えるクリエイターなんて腐るほどいるからさ。私が現場復帰したところで何の使い道もないわけ。多分、ADと同じ扱いかもね」
「そうか……それでも復帰したいって気持ちなの?」
「そうね、だって家にいてもつまらないし、ほら私の性格上、ご近所やママ会とかに参加する感じでもないじゃん」
「確かにそうね。真理は昔からそう言うの苦手だから」
「頼子もね」
と笑う。
 確かにそういうものに不向きなのは二人から伝わってくる。
「だから子どもなんてって思う人、最近増えてるみたいよ。結婚さえしない人多いし」
「私のことかな? でもほしいと思っても生まれない人もいるしね」
「頼子はあんなことがあって、今軌道に乗り出したって感じでしょう?」
「確かにね、智也さんにも迷惑をかけてると思うの」
「僕はそんなこと感じてないけど」
と微笑みながら紅茶に口をつけた。
 すると僕のほうを見て興味津々そうに真理さんは話しかける。
「ところで、どうして頼子を?」
「ちょっと!」
「良いじゃん。気になる」
「それは……僕と頼子は小学校四年生から六年生の二年間、同じところに行っていて」
「じゃあ、元々知り合い?」
「うん、だけど、私のほうは全然覚えていなくて随分、申し訳なかったと思っているの」
「僕はそんなには気にしていなくて。確かに覚えているほうが珍しいですから」
「三好先輩はそのこと?」
「知っていたの。だから彼に私のことを頼むってね。迷惑だっただろうけどこうやって一緒にいてくれているわ」
「迷惑じゃなかったんです。僕から願い出たことだったので」
「そうだったんだ。じゃあ昔から好きだった?」
「そうですね」
「へえ、頼子モテモテじゃん!」
「ちょっと真理! 真理のほうがモテモテだったと思うけど?」
「いやいや、私はさ」
「真理だって、先生に振られてからすぐに彼氏できて、彼氏と別れてから大学で彼氏できて」
「ちょっと頼子! 言い過ぎ」
と笑う。ひとしきり笑って落ち着いたところで
「でも良かったよ。一時は頼子も塞ぎ込んで、人生なんてどうでもいいみたいな顔をしてたけど、こうやって幸せそうで何より」
「ありがとう。真理にも心配かけちゃったもんね」
「そうよ。どんなに三好先輩を恨んだか」
「どうして?」
「だって頼子を残して自分だけ先に逝っちゃうなんて最低よ」
と言って頼子を見つめた。
「それも運命だったんだわ。今はそう思えるようになったの。智也さんのおかげでね」
と言った。
「はいはい。お惚気、ご馳走様でした。お腹いっぱい」
と言っておどけた。
 三人は笑いながらブラジルを後にして浅草寺へ向かった。あんなに食べたのに真理さんは舟和の芋ようかんを暖かくしたものを食べ、揚げ饅頭まで食べていた。
「よく食べるわね」
「子ども産んでから食欲止まらなくて」
「ほほう」
と笑いながらお参りをした。
 頼子は丁寧にお参りをして頭を下げておみくじを引くことにした。
真理さんはおみくじを見せながら
「私、吉だった……」
「良いじゃない。私は大吉」
「もっと喜びなさいよ。相変わらずねぇ。黒川さんは?」
「僕も大吉ですね」
「本当だ! すごくない? 結婚しちゃえば?」
「安易なこと言わないの」
と言って三人は木に括り付ける。
 すると頼子は真理さんに小さな袋を手渡した。
「何?」
「良いから、持ってて」
「開けて良い?」
と言うと頼子は微笑みながら頷く。袋の中には可愛らしい良縁守りが三つ出てきた。
「これ……」
「三人ともが良縁になりますように」
「ありがとう! 本当にごめんね。心配かけて」
「良いんだって。真理の幸せが叶いますように」
と言って微笑む。頼子は本当に優しい人だった。
 浅草から帰る途中、真理さんと頼子はスーパーに立ち寄って食材を買い、今日は僕らの家で食事をとることにした。
 普段は買わないお酒も今日は特別に買った。家での調理は頼子が行った。真理さんも手伝ったが、それよりも部屋のほうが気になるようだった。
「いやぁ、二人で働いてたらこういうお部屋にも住めるわよね」
「あれ? 真理の家って一軒家じゃないの?
「旦那の給料が減って。もともと一軒家だったけど、あれ賃貸なのよ。だから今はアパート暮らし」
「そうだったんだ。そう考えたら働きたくもなるわよね」
「そうでしょう? でもどこが良いか分からないし、でもあの部屋の狭さじゃ、兄弟も作ってあげられない」
と寂しそうだった。頼子は話を聞きながら食事をテーブルに運んだ。
「じゃあ、真理が来てくれたことに乾杯!」
と言って三人は乾杯をした。するとゆっくりとマルが起きてきてご挨拶をする。
「あら、頼子猫飼ってるの?」
「そうなのよ。三好の家からもらってきたの」
「そうだったの。じゃあの可愛いミックの?」
「そうそう、ミック子ども産んだんだって話になって」
「そうかそうか! お前良かったな」
と真理さんはマルを撫でた。食事をしながら話は真理さんの子どもの話になった。子どもの名前は壮太。
「壮太君、だいぶ大きくなったね」
「うん、もう三才だもん。大きくもなるわ」
「そんなになるっけ?」
と言いながら微笑ましく見つめている。食事を終えてゆっくりとリビングでコーヒーを飲む。
「でもこんな広い部屋に住むのって家賃高いんじゃないの?」
「ここね、彼の職場の寮なの。だから基本的にお金のことは聞いていなくて」
「じゃあ、タダで住んでるの?」
「そういうわけにもいかないから光熱費ぐらいは払ってるわ」
「いやー羨ましい」
と言う。
「真理、話は戻るけどこのままってわけにもいかないでしょう?」
「そうね、実はね」
と言って真理さんは鞄から一枚の紙を出してきた。よく見ると「離婚届」と書いてあり、片側には旦那の名前が書いてあった。
「ちょ、ちょっと何これ」
「旦那がもう限界だって」
「待って、ここまで話が進んでるって思ってもなかった」
と頼子は驚きを隠せないでいた。
「そうなの……もう向こうの親も大賛成って感じで」
「だから就職口を探してたのか……」
「うん、でも私のことばかりじゃないの。壮太もいるし」
「そうよね。旦那さんへの気持ちは?」
「なくはないの。まだ気持ちは残っていて。だけど、こんなの渡されたら泣きそうにもなるわよね」
と言った。確かにそうだ。突きつけられた現実を多分回避できない。だけど僕は頼子に教えてもらったことをどうしても伝えたかった。
「ちゃんと伝えてみるのはどうでしょうか?」
「伝えてみる?」
「そうです。旦那さんにちゃんと説明をすれば分かってくれるはずです」
「もう無駄よ。だって分かってはくれないわ」
「分かってくれるまで話しましょう。それでだめなら……」
「そうよ。私も一緒に居たって良いの。だからもう一度話してみたら?」
と言うと真理さんは深く考えこみ、頼子の顔を見つめる。
「頼子、うまく行くかしら?」
「私、もう一度うまくいってほしいと願ってるわ」
と言った。頼子は真理さんをタクシーで送り届けるとゆっくりと部屋に戻ってきた。
「真理さんどうだった?」
「うん、ちゃんと旦那さんに話してみるって」
「そうか、僕もちゃんと話したほうが良いと思うんだ」
「そうよね。私もそう思う。新聞もいろんなコラムがあるじゃない。書いていて自分でも分からないことがあるのよ」
「そうだよね。確かに。うまく言っているように見えてうまく言っていなかったり」
「そうそう。もう二人だけの問題じゃないしね」
と笑った。
 頼子がここに引っ越してきたころは、自分たちの部屋で眠っていたが、寝室があるのに使わないのは勿体ないということでベッドを買い直した。
 二人で眠ることもあれば、仕事が立て込むとまだ捨てていない各自のベッドで眠ることもあった。頼子は新しいパジャマを買って上機嫌だった。
「このパジャマ、無茶苦茶触り心地がいいのよね」
「デザインも良いじゃない」
「でしょう? 貴方のも買っておいたから来てね」
「ありがとう。勿体ないな」
と言いながらジャージから着替え直した。昔からジャージ派だったが、頼子はジャージを嫌った。ジャージを着ているとどこかのヤンキーを思い出すという。僕はこれはこれで着心地は良いのだが……。
 頼子は家にいるときは眼鏡をかけている。明るいところで本を読みながらベッドにいる。頼子の隣にすっと入った。
「連日、ありがとう」
と言って本を閉じて眼鏡をはずした。
「ううん、構わないよ。頼子の友達だし、色々大変なのも分かってるし」
と言うと頼子は僕にキスをした。
 僕はそのまま頼子を抱きしめて事に及んだ。頼子はそのまま身をゆだねている。ここまで来るには相当な時間がかかったような気がする。
 終わったあと、頼子は僕の額の汗を手でぬぐった。
「頼子、頼子は今、どんな気持ち?」
「えっ?」
「ずるいよ。僕には前にちゃんと気持ちを言ってほしいっていったくせに」
「あら、顔に書いてあったかしら」
「うん、少し複雑そうな顔をしてた」
「そうね、本当のことを言うと、真理が笑ったり泣いたり、出来るのは旦那さんがいて、子どもがいて幸せな証拠のはずなのにって思って」
「頼子は今、幸せ?」
「私は幸せよ。貴方が傍にいてくれて寂しさや、悲しさはないし。何不自由なく生活しているし、きっと真理が悩んでいる仕事も私はしているし。大好きなマルもいる。私は十分よ。貴方は?」
「僕も頼子とマルの三人で暮らしていけたらそれでいいよ」
「あら、仕事での欲はないの?」
「ないよ。准教授までなれたんだ。僕は研究と患者の命さえ救えたらそれでいい。頼子は?」
「私は……このままずっと文章に囲まれた生活が出来たらそれで良いかと思っているわ」
と言って僕の体にぎゅっと自分の体を寄せる。僕はすかさず頼子の体を抱き寄せた。

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