パワハラのこと

私は、大前提として、自分に協力的でない、自分の作品を好きじゃない、自分の仲間じゃない人の人となりや行動に対して、自分がいかに公平な分析ができるか、ということをいつもいつも考えている。

それは私が簡単に、自分を慕ってくれる人のことばかり評価してしまうという凡人だからだ。そのまま素で生きていたら、裸の王様になりかねない。そんな恐ろしい結果に遭遇するよりかは、即効性のあるメリットはなくても、人となりとは関係なく、面白い面白くないを判断したいし、自分や自分の作品に対して好意的かどうかはそのジャッジをぼやけさせるものであってはならないと強く思っている。(ただし苦手な人にはどれだけメリットがあってもわざわざ近づかないです)

さてそこで今回の、パワハラの件。「京都を代表する劇団、地点の三浦氏からパワハラを受けた俳優さんが労働組合を通して声明を出したが、地点からはノーリアクション」という件だ。初めてこれを耳にした時に「私ならとりあえず批判的な意見を沈静化するために慌てて声明を出してしまいそうなものだけど、三浦さんは肝の座った人だなあ」ということだった。と同時に、いつもいつも活躍しているように見える三浦さんが、世間から叩かれているという状況に、ゴシップ的な興味が湧いたのも事実。標準的な、ゲスな人間のリアクションしか持たなかった。

そして一昨日、ロームシアターの館長に三浦さんが就任したというニュースがあり、この話が再盛り上がりしたのを受けて、私は改めて「パワハラ」とは何かということを考えることになった。

正直言って、パワハラ問題は非常に興味のある問題である。なぜなら私に加害者の素養があるからである。私は自分に素養があるからこそ、常々、自分の内面に浮かび上がるパワハラ的な心情を警戒しているし、それを表出=行動に移さないことをミッションにしている。それはせめてもの、私の、これまで受けてきたあらゆるハラスメント被害に対する抵抗だと思っている。これまでの被害のことは絶対に許さないし、私はあの人たちのようにはならないという決意だ。もちろんそこには自分の過去の加害者としての振る舞いも含まれている。あのような私とは決別したいという思いがあるので、私は常に、ハラスメント関係のニュースに対して過敏に反応する。

ところが今回の地点の件では私は、憤りを覚えなかったのであった。大きな理由の一つとしては、三浦さんがどんな方かということを多少知っていること。でもそれ以外に何かということを今改めて考えてみると、その俳優さんが「その状況下で逃げられるかどうか」という点がよくわからなかったから、であった。

私がだいたい腹が立つときというのは、被害者がその状況から心理的、身体的に逃げられないという条件が必須になってくるようだ。その人しか頼る人がいない、そこでしか生き延びることができない、という被害者の(もちろんある種の思い込みでもあるのだが)心理を巧妙に突いてくる加害者。要するに加害者の方も、実は心理的に被害者に依存しているという構造。それが透けてみえた時に、私はとても腹がたつ。

その構造が、今回はまだ見えてこないということが私にとってはポイントだったのかもしれない。そういうことも、実際はあったかもしれないしなかったかもしれない。それは私にはわからないのだが「嫌なら逃げればいいじゃん」と外野が思った時に「いやいや当事者からすればそれはやっぱり逃げられない状況だった」かどうか。加害者がそれを利用したと考えられるかどうか。それが見えてこないことには、腹の立てようがない、というのが正直なところなのであった。

人から怒鳴られたり、意地悪をされたり、特に合意もしていないのに性的に迫られたりするのは辛いことだ。もし、逃げられるなら早い段階で逃げるべきだと私は思う。特に成人していれば尚更だ。しかし心理的に逃げられないことがある。これは歴然とした事実である。その「心理的に逃げられない」ということを、どれだけ適切に汲み取れるか。それをすっぱり、目に見える事実だけ切り取って判断してしまうような人が「最近の若者(子供)は根性無しだから」とか「合意があったはずだ」とかいいだす。だから心して慎重に汲み取らねばならない。

それを十分わかった上で言えることは、今回は、その辺りを汲み取るにはいろいろと情報が不十分であったと私は思った。と同時に、どうしても、劇団を運営するというリスクを一手に担っている地点や三浦さんの、苦しみや辛さばかりが汲み取れてしまうというのも、同じ劇団運営者としての正直な気持ちである。念のため言っておくが、そんなことを言い訳にパワハラをして良いと言ってるのではないぞ。無いけど、荒野を開拓していくことって、簡単じゃない。

同じ京都で演劇をする人間たち、あいつらは黙ったままだ、というつぶやきが何度も何度もツイッターをかすめ、黙っていることが三浦さんのご機嫌取りかのように思われたりすることなんて、まぁ正直どうでもよかったのだが(だって三浦さんにご機嫌取りは効かないことを周りの人は知っているから)、本当に三浦さんと創作を共にしている方ほど意見は言いにくいかと思うし、私のように、特に三浦さんと関わりがなかったり、空気が読めなかったり政治的な動きができない人間なら多少リスクも軽減されるのではなかろうかと思ったので、書いてみました。反論というか、違う視点からのご意見、お待ちしてます。

追記【2023年7月】
この記事を書いたあと、「かもべり」の記事を読んだり、「表現者の権利と危機管理を考える会」の記事を読んだりし、2022年10月にはこの件に関する裁判を傍聴しました。実際に色々と自分で調べ、行動に移してみて、この記事を書いたときとは全然違う意見になりましたがそれはまた機会があれば書きます。どうしても書いておかねばならないことが一点あって、私の反省ですが、やはりどんなシチュエーションにおいても、そのシーンの「強者」と「弱者」がおり、訴えているのが「弱者」であった場合、「真偽はわからない」と言う前に、パワーバランスのことに想いを馳せるべきだったと言うことです。


地点の三浦さんのコメントは2022年10月の段階で止まっています。


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