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”作品”という完成した形

久しぶりにYouTubeを開き、エモいMVをあさっていると、途中で三浦春馬のNight Diver がおすすめに出てきた。他の作品は観れるのだけれど、MVだけはなぜか少し観れない気がして最近は観なくなっていた。
だけど、今日の私は久しぶりに見てみようかな、もう大丈夫だと思って再生ボタンを押した。
そこには私が応援していた大好きな春馬くんが、今も変わらずに存在していた。もうなんと言ったらいいのかわからない嬉しいようなでも悲しいような、色々な感情がグチャグチャになってこみ上げてきた。

でもそれと同時にはっと気がつかされた。

最近私のインスタには春馬くんがいっぱい出てくる。つい彼の写真があると見てしまうから、気がついたらおすすめされる投稿は春馬くんの写真ばかりになってしまう。するとあまり見たくないような言葉をどうしても見てしまうことがある。それが正しいかどうかではなく、その人の考えを自分はどう受け止めるのか。ただそれだけのことであったはずなのに、最近私の中では、私が好きだった春馬くんってどんな人だったっけ?あれ?と思うようになってしまっていた。もちろん春馬くんを好きなのは変わらないし、忘れたわけでもない。

ただここで私が言いたいのは、誰かの考えによって、そこに確かに存在するものの見え方が変わったまま、それが事実として記憶に残る可能性があるということだ。

ある一つの事象に対して様々な見解があることも多角的に見られることも重要だと思う。しかし今ここで私が伝えたいのはそういうことではなく、記憶がいかに曖昧で都合のよいものかということだ。自分の見えていたもの、信じていたものが誰かと話すことでまた違う考えを持ち見え方も変わってくる。これは良いことだと思う。変わったものも変えたものも、昔はこう考えていたと振り替えられるなら、客観的に考えられるなら、いいことだと思う。

しかし私は、無意識のうちに他者が見る三浦春馬を自分に取り込み、それを自分の知らない彼の一面として捉えてしまっていた。彼らの考えに「いやいやいや。」とか「それは違うのに。」と思っていたはずなのにだ。そういう部分もあったのかもしれないなとは思っていたが、そんなこと私が知る由もないと考えていたのに。

だからNight Diver を久しぶりに見てなんとも言えない感情になったのだと思う。ああ私が好きだった彼はこうだ。一生懸命で全力で、私たちに何かを伝えようとしている、表現者だった。完璧でスマートにこなしてしまうが、裏で人一倍努力している彼を想像してまた好きになっていた。完璧を常に見せようとしている人だった。これは私が勝手に想像して好きになっている部分だから他人からすれば、「違うよ。」と思う部分に入ると思う。

しかし、彼の作品から何を受け取るかは人それぞれだとしても、彼が表現しているものだけは絶対に変わらなくて、彼自身でありそれが作品であり続ける、ということに改めて気がつかされた。

だからNight Diver を見た時に、やっぱり彼が大好きでこの作品に出会えたことがまた嬉しくて、でもそれと同時に新たな作品はもう見られなくなるんだなと少し寂しくなったのだと思う。

記憶は絶対ではなくて曖昧なものだけれど、だからこそ全てを美化するわけではなく、そこに変わらずに存在するものを見て聞いて、感じていきたい。

考えだって、正解だって、善悪だって時間と共に変化していく。そんな中で、その時々の彼と彼が伝えてくれているものを”変わらずにあるもの”として見られることがなんだか嬉しくてたまらない。


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