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二十歳のころの詩 2篇

 当時のぼくは大岡信や田村隆一や谷川俊太郎や安東次男訳のエリュアールの詩ばかり読んでいて、自分でも同人誌にへたくそな詩を書いていた。今読み返しても、彼らの影響をもろに受けながら、まるで独り立ちしていない頼りない言葉がページの上でくだを巻いている。今さら再掲するのは、先日亡くなった大岡信さんの追憶のためでもある。ぼくの言葉の、たぶん半分近くは、大岡信さんでできている。
 そして、あのころのぼくは、名前に「夏」という季節を持つ女性にすごく苦しい恋をしていて、いつもいつもいじけていたのだった。これら二つの詩は、たまたま別の用事で訪れた、彼女が住む街の駅前の喫茶店で一気に書いた、ひとつの感情の表と裏のようなものだ。でもその後、冬から春にかけてのかなり長い間ずっとこねくりまわしていた記憶がある。推敲といえば聞こえはいいけれど。
 それにしても二十歳である。なんだかなあである。

   街は午後の祝祭のように

きみの見えない拒絶を受けながら
指で街の深さを計っていたあの日
あんなに高く肩に雪を積もらせて
きみは誰を待っていたのだろう

時は如月
ぼくらの神話が
いちまいいちまいはがれてゆく午後
ぼくたちは葉書の束となり
ゆるやかに空転する言葉をひろげている

だが たとえばきみが
「二月」と短くささやくとき
きみの影はひらりと裏がえり
きみの背後で木々はいっせいに息をのむのだ

――気がつくといつもここに戻ってきていた
窓から見える雲の切れめと
苦笑と雑踏 そして一杯のコーヒーと

午後の街はまるで祝祭のように
さびしい嘘を装いつづける
さあ そろそろ出かけよう
青ざめたぼくの午後をひきずって
ぼくは夕暮れの街を歩かねばならない

きみの肩からどこまでも透明な水がしたたる
きみはもうあの葉書を出しただろうか
歩みにつれて波打つ街は
ひらひらと
すでにいちまいの春

  きみは幾多の夏を

きみに追いつくことができるとすれば
それは記憶の環礁においてでしかない
私はなつかしさの中にしか
行き先を組織することができなかったのだ

きみを愛している と告げることも可能だった
しかし きみが夏にさしのべた両腕を横目に
私はひとり辺境に冬を育てていたのだ
私ときみとの間にはいつも
無言のまま通り過ぎてゆく無数の人びとがいて
私にはきみの姿もきみの声も見えなかったから

だが 疲れはてた私の眼差しが
あの夏の風景をたずさえて
夕闇の街をぬって戻ってきたとき
私はもういちど出発しなければならなかった
きみの名をもういちど
私の中で組み立て直すために

きみの中の幾多の夏を

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