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人生を振り返る

35年間の人生を振り返りたいと思う。

まずは自己紹介から。
名前は山崎 竜一
生まれは九州鹿児島
独身
職業 水商売

一番古い記憶は何だろうか?
小学校低学年までの記憶は時系列が曖昧で、どれが最古の記憶なのか自信が無い、、、

この文を書きながら振り返ってみる。
俺の最古の記憶は、恐らくだが3歳の時だと思う。当時住んでいた市営団地の部屋で母方の祖母(後年判るが実は曾祖母)と弟が誕生するのを2人で待っていたと思われる時の記憶だ。

もしかしたら記憶違いで、生まれたての弟のお腹を玩具に夢中で気付かずに踏みつけてしまい、両親が弟を病院に連れて行っている時の記憶とゴチャ混ぜになっているかもしれない。

酷い話だが、本当にわざと踏んだわけではない。
当時は、俺が弟に嫉妬して踏んだのではないかと疑われていたのが子どもながらに感じ取れて悲しかった。

生まれたての弟の顔は今でも覚えいる。よもやするとこっちが一番古い記憶の可能性もあるが、、、

自画自賛ではないが、賢い子供だったと思う。何歳までを子供時代と自称して良いのかはわからないが、今の自分から見て中学生位までは子供だと思うことが多々あるのでとりあえず中学卒業までは子供時代の記憶ということにしよう。

通っていた保育園は母方の祖母の家の近所にあり、朝は父が車で送ってくれるか母と徒歩で通っていた。
帰りは祖母が迎えに来たり、母が迎えに来たり、、、
おそらく父が迎えに来たことは無かったかな?

祖母の家で母を待つことも多々あった。
母を待つ間に祖母が握ってくれるオニギリの味は35歳になったいまでも覚えている。
鰹節のオニギリ、大好物だった。

保育園の頃の記憶は殊更に時系列があいまいで、その中でも鮮明に覚えていることを書いていこうと思う。

今もあるかは分からないが、当時は俺含む園児たちは和太鼓を保育園で習っており地域のお祭りや老人介護施設の慰問などで披露していた。

ぼちぼちの大きさの太鼓を担当していた俺は、よく保母さんに姿勢が悪いと注意されていた。
当時5歳前後の俺は今でも直らない猫背であった。
皆の前に引っ張り出され園長先生に注意されたこともあった。
当時は理解できなかったが、見栄えだけでなくこの年になって腰痛等で悩まされるようになり当時の先生方の言うことをちゃんと聞いておくべきだったと後悔するときもある(笑)

そういえば、当時大好きだった母方の親戚のお姉ちゃんが中学だか高校だかを出て実父の住む大阪に行った日のことをいま急に思い出した。
地元の小さな駅のホームで泣き叫んでいた幼き頃の自分。
この時、弟はもう生まれていたか?どうだろう?

団地には小学1年の3学期まで住んでいた。
小学生の時の記憶はわりとはっきり思い出せる。
俺が小学に上がる前の年は確か父が静岡に単身赴任していた時期だ。
その頃、我が家では怪奇現象が起きていた。
朝、目覚めると室内の壁に黒色の手形が浮かんでいるのだ。
大人サイズのそれは日毎に増えていき、幼心に恐怖を抱いていたものだ。
たまに帰ってくる父に母が相談していたのを覚えている。

結局手形の正体は不明で、小学1年の時に父が父方の実家の土地に家を建てたのを機に引っ越してしまい今でも謎は解けないままである。

しかしながら、今にして思えばあの手形は母の自作自演だったのではないかと思っている。
同世代の各家族が一軒家を建てて引っ越していく。田舎では早ければ20代半ばで家を建てる。
当時の両親の年齢は32くらいだっただろうか?
夫は単身赴任で市営団地暮らし。母が一計を案じ、父に家を建てる気を起こさせたのかもしれない。
父はどう思っていたのだうか、、、。

小学1年生の2学期までに起きた出来事の中で衝撃的だったことがいくつかある。

1つは2学年ほど上のいじめっこを田んぼに突き落としたこと。
これは怒られたが、過去に俺も数回突き落とされていたためにお咎めなしとなった。
数年後に判明することだが、どうやらいじめっこは俺の父方の遠縁になるらしく、うちが本家筋だったため見えないパワーが働いたのかもしれないと今は思っている。

2つ目は、同じ団地に住むクラスメイトを体育の授業中に骨折させてしまったこと。
2人で手を繋いで体育館の中でぐるぐると回ってふざけていたのだが、加速しすぎて俺が手を離してしまった。
勢いで吹き飛ぶクラスメイト。そのまま先生に病院に連れていかれ翌日にはギプスを吊り下げて登校してきた。
当時は授業中の事故ということで、大事にはならなかったが今ならどうなんだろうか、、、

次に、胃カメラだ。
その日は制服に縫い付ける名札を購買部で買うために朝母から100円玉を受け取っていた。
制服に着替えながら100円玉を唇に挟んでいたのだが、何故かふとした拍子に飲み込んでしまった。
食道を100円玉が通っていく感覚は今でも覚えている。
飲み込んでしまったことを親に知られては怒られる。しかしながら、名札を買うためには100円玉が必要だ、、、。
どうしようかと悩んでいると俺の様子がおかしいことに気づいた母から問い詰められ、俺は恐る恐る飲み込んでしまったことを自白した。
その後は怒られることなく、父が有給を急遽取り病院へ。
初めての胃カメラは地獄だった。吐きながら身体を回転させられ胃カメラのアームが100円玉を掴みそこね、また吐きながら身体を回転させられる。
おそらく2時間以上かかっていたと思う。
麻酔の影響で夜までは飲食禁止となり、胃の中が空っぽのためかなりキツかった(笑)
そんな俺の目の前で父はポテチを食っていて母と母方の祖母に説教されていた。

最後にして一番強烈だったのは、この世には変な人がいるということを認識した日だ。
入学式の翌日。クラス内の自己紹介は終わっていたがまだ保育園や幼稚園が一緒だったり、同じ地区の顔見知りとしか話せない俺。
他の連中も同じような感じではあったが、掃除の時間になりその時は訪れた。
男女2人ずつの4人組で掃除の担当が割り振られたが、その日は6年生2人組が掃除の仕方を教えてくれるという。
あまり真面目に聞いていなかった俺に注意してきた女の子がいた。
その子はカスミと自己紹介し、俺に名前を聞いてきた。同じクラスでもさすがに個人名を完全にはお互い把握していなかった。
掃除が終わり、帰りの会までの数分の間カスミと話していたのだが、とにかく変わった子だった。
体を張ったギャグをやたらとする子だった。プルプル小刻みに震えながら歌い出したり、今で言う変顔をしたり。
しかしながら、可愛いのだ。可愛いのに体を張って笑いを取る。
それまでの短い人生でそんな子を見たこと無かった俺は、正直ドン引きしていた。

結局この小学校とは1年の3学期でお別れした。
同じ町内での引っ越しだったが、学区が変わり父の出身小学校へと転校した。
思い返せばこの辺りから我が家は歯車が狂いだしていたのだろう、、、