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山下良道先生の批判に応える(一法庵鼎談・資料)

「アップデートする仏教を体感しよう@金沢」における、山下良道先生のトーク( http://www.onedhamma.com/?p=5133 )を聴きました。そこにおいて、山下先生は拙著『仏教思想のゼロポイント』に批判的に言及なさっているわけですが、私としては、「山下先生は、そもそも『ゼロポイント』をお読みになっていないな」というのが第一の感想です。

山下先生は、私自身(もしくは、「ゼロポイント」)の立場を「仏教2.0」だと規定した上で、そうした仏教理解が「ポイントを外している」と指摘されたわけですが、本書に明記してあるとおり、私自身は「テーラワーダ仏教徒」ではなく、ゆえに「仏教2.0」の立場を私が「正しい」ものとして奉じているということはありません。

また、山下先生が唱導されている「仏教3.0」の立場について言えば、これは「ゼロポイント」の、とくに(藤田先生が引用された)第八章において明示的に言及した上で、仏教思想史における私なりの位置づけも与えています。つまり、『仏教思想のゼロポイント』は「仏教3.0」の立場も明示的に織り込まれた上で叙述されている著作なのであり、その点を知らない(理解されない)ままにそれを一方的に「仏教2.0」の著作だと規定した上で批判するというのは、他者の著作を批評する上での、重大なマナー違反の行為であると考えます。

もちろん、「山下先生は『ゼロポイント』を読んでいないのではないか」というのは、むしろ「好意的」な解釈であって、もし読まれた上で(お送りしていますので)上述のような理解をされているのであれば、事態はより悪いということになる。いずれにせよ、他者の著作に対して(とくに批判的に)言及するのであれば、相手の主張を誤りなく理解し・引用するのは当然の礼儀であると私は考えますが、山下先生ほどの方が、そのような最低限のマナーすら逸脱した振る舞いをされたことには、残念という以外の感想はありません。


ただ、いずれにせよ既に発言は為されてしまい、一般に公開もされているわけですから、誤解に基づいた批判を受けた私としては、その誤解を正した上で、自身の立場を明示する権利も責任もあると思います。そこで、以下では、これまでご本人に直接指摘した以外には、これまで公に書くことは避けてきた諸点も含めて、山下先生のテーラワーダおよび仏教の理解の問題点を指摘し、併せて私の立場も記述しておきたいと思います。

さて、最初に結論を要約しますが、私がポッドキャスト法話や著作から存知している限りでの、山下先生の仏教に関する言説・理解には、問題点が大きく分けて二つあります。

一つは、山下先生がテーラワーダ仏教、とくにその瞑想の性質に関して、端的な事実誤認を犯しており、その事実誤認に基づいて、テーラワーダ仏教に対する(具体的には「仏教2.0」であるという)評価を行っているということ。

そしてもう一つは、山下先生が、ご自身の唱導されている「仏教3.0」を、とくに根拠のないままに「それがゴータマ・ブッダ自身の立場でもあった『はずだ』」と断言されるという、典型的な「はずだ論」に陥ってしまっているということ。


まず第一の点について申し上げますと、山下先生は『アップデートする仏教』において、「テーラワーダの人たちは、シンキング・マインドで瞑想をやっている」、また「テーラワーダの人たちは、瞑想における主体の問題について考えていない」という趣旨の発言をされており、それ以降の様々な機会においても、同様の認識を繰り返し表明されています。しかし、これはテーラワーダとその瞑想の性質に関する、端的な間違い・認識不足以外の何ものでもありません。

最初の「テーラワーダの人たちは、シンキング・マインドで瞑想をやっている」という点については、例えば私の訳したウ・ジョーティカ『自由への旅』や、マハーシ・サヤドー、アーチャン・チャーなどの著作を読んでいただければわかるように、彼らが「シンキング・マインドで瞑想をやっている」などということはあり得ませんし、「シンキング・マインドで気づきの瞑想をやっても駄目」という程度のことであれば、卓越した瞑想者なら誰でもが知っており、指導もしている基本中の基本に属する理解です。このことは、上述の『自由への旅』にも明示的に記されておりますし、上座部圏の瞑想センターをいくつか訪ねて実践を行った経験のある人であれば、誰でも知っていることだと思います。

また、次の「テーラワーダの人たちは、瞑想における主体の問題について考えていない」という点について言っても、これはまさにその問題が、例えば上述の『自由への旅』にパーリのテクストを引証しつつ述べられているところであって、「瞑想における主体の問題」が、テーラワーダ仏教において閑却されているということは全くありません。「テーラワーダ仏教ではその問題について考えられていない」というのは、単に山下先生が、そうした基本的なことを、ご存知ないというだけのことです。

こうした諸点に関しては、山下先生から『アップデートする仏教』を送っていただいた直後に、長文のメールを書いて、私は著者のご両人に指摘しています。それに対して、藤田先生からは直ちにご反応がありましたが、山下先生からは、今に至るまで、何も応答はいただいていません。

金沢の法話では、山下先生は私に『アップデートする仏教』を十何冊送った、と言われていましたが、正確には八冊です。「ミャンマーで瞑想している人たちに配ってほしい」とのことだったので、言われたとおりに配りましたが、その反応は総じて冷淡、とくにパオ瞑想センターで実践を行っている人たちからは、半笑いと溜め息しか聞かれませんでした。そうした反応の理由には色々なものがあると思いますが、そのうちの一つには、山下先生による上述のようなテーラワーダに対する基本的な誤解が『アップデートする仏教』に開陳されているということが、確実にあると思います。

「アップデート」の中で、山下先生は上の二つの誤認も大きな根拠とされながら、テーラワーダを「仏教2.0」であると規定し、それを批判的に乗り越えたものとして(「3.0」と言っている以上、聞く人がそう解釈するのは自然です)「仏教3.0」を提示されるわけですが、現実のテーラワーダを知っており、その実践も行っている人たちからしてみれば、そもそも山下先生のテーラワーダ理解自体が誤解に基づいている以上、それが「2.0」だと言われても、単に山下先生が、「自分の影を殴って、勝手に勝利宣言をしている」に過ぎないわけです。


誤解していただきたくないのですが、私は『アップデートする仏教』はたいへんな名著であると思っていますし、そこで提示されている「仏教3.0」の方向性も、基本的には素晴らしいものだと思っています。ただ、山下先生の仏教理解(「仏教3.0」)は、それ自体として価値あるものに違いないのだから、それを唱導するに際して、テーラワーダに対する誤解に基づいた貶めをするような余計なことは、なさらないほうがよいと考えるということです。

繰り返しますが、私は「テーラワーダ仏教徒」ではありませんし、したがってテーラワーダを「信仰」に基いて何が何でも擁護する、という立場にはありません。様々なところで既に申し上げているように、私自身は仏教であれば禅の教え、それ以外も含めて考えるのであれば(禅と朱子学を踏まえた上での)陽明学に、最も思想的な親和性を感じています。ゆえに、テーラワーダ仏教と私の考え方は同じでは全くありませんし、「テーラワーダ仏教の教えはそのまま現代日本人一般にも適用可能だし、またそうされなければならない」といったような過激な主張に対しては、時に厳しい批判も必要であると思っています。

だからテーラワーダを「批判的に乗り越え」て「仏教3.0」を説くこと自体については、私は何も問題を感じませんし、むしろ積極的に応援したい立場なのですが、批判するのであれば当然の礼儀として、相手の主張は正しく理解してやらねばならない。上述のように、「自分の影を殴って、勝手に勝利宣言をして」も、それは単に批判者の内面の出来事に過ぎないことになりますし、そうした話は、そもそも最初から同じように考えていた(そういうバイアスを持っていた)一部の人たちにしか届かないということになってしまうからです。


さて、第一の問題点については以上ということにいたしまして、次は第二の、山下先生における「はずだ論」の問題へと話を進めます。

「はずだ論」に関しては『仏教思想のゼロポイント』でふれてあるところですが、ここで改めて解説しますと、それは「自己の願望に基づいた理想の仏教・正しい仏教をゴータマ・ブッダというブラックボックスに押し込んだ上で、『ゴータマ・ブッダも私と同じ立場から教えを説いたはずだ』と根拠なしに断言してしまうような論」のことを指しています。

例えば、和辻哲郎という人は、パーリ経典へのひどい誤読を積み重ねた上で、「ゴータマ・ブッダは(和辻と同様に)輪廻転生を説かなかった。それが仏教の本来的な立場のはずだ」という論陣を張った。経典を素直に読めば、仏教はいわゆる「初期経典」から一貫して輪廻転生を説く立場を維持しているわけですから、つまり和辻は「仏弟子たちは、ゴータマ・ブッダのほとんど直弟子くらいの世代から、ずっと彼の教えを誤解してきた。しかし、二千五百年後の日本に生きている私だけは、ゴータマ・ブッダの『真意』を知ることができたのである」という主張をしているわけです。そんなバカバカしいことはあり得ないと私は思うのですが、まあこういうのが「はずだ論」です。

そして山下先生も、『アップデートする仏教』から直近の金沢の法話に至るまで、一貫してこの「はずだ論」の立場から語っておられる。つまり、「私の提示する『仏教3.0』の立場こそが、ゴータマ・ブッダの本来の教えそのものであったはずだ」と主張されているわけですが、私自身は、これには全く賛成できません。

昨日、藤田一照先生にも直接に申し上げたことですが、そもそも私は、日本の仏教者たちが現代に至ってもなお、まだこの「はずだ論」の枠組みを手放さずに仏教を語ろうとしがちであるという、その傾向自体を疑問視しています。

既に述べたように、私は『アップデートする仏教』は大名著だと思いますし、「仏教3.0」という方向性自体も素晴らしいものと思っています。また、山下先生が使われる「青空」という表現も、仏教や瞑想を語る上で、わかりやすく適切なワーディングであると考える。ただ、私が疑問なのは、そうしたそれ自体として価値のある教えを、無理に(とくに明確な根拠もなく)「ゴータマ・ブッダの本来の教えも同じであったはずだ」と主張する必要がなぜあるのか、ということです。

冒頭に述べたように、拙著『仏教思想のゼロポイント』は、「仏教3.0」の立場も明示的に織り込んだ上で、それも含めた仏教の諸思想に、私なりの思想史的に適切な位置づけを与えていってある著作です。その作業を行うために、まずはパーリ経典の記述を根拠としつつ「ゴータマ・ブッダにおける解脱・涅槃(仏教思想のゼロポイント)」の性質を解明し、その観点から大乗や中国禅などを含めた仏教史の展開を眺めてみると、「本来性と現実性の相克」という観点から、かなり整合的な見通しがつけられるのではないか、という論理構成ですね。

そして、本書の肝となる主張は、「これまで日本の仏教者・学者がやり続けてきた『はずだ論』をいったん停止して、『ゴータマ・ブッダの仏教』に近いといちおう考えられる、いわゆる『初期経典』の記述を虚心坦懐に、書かれてあるままに理解し、そこから『仏教思想のゼロポイント』を定めてみると、『仏教3.0』も含めた多様な仏教の諸思想が、そこからの論理的な可能性(あるいは、ひょっとしたら『必然性』)として次々と現象してくる様を、無理なく理解することができる。逆に言えば、なんのソースもないままに信仰や霊感によって仏教者たちがそれぞれの勝手な『はずだ論』を説き、『ゴータマ・ブッダ』というブラックボックスに、自由気ままに『私にとっての正しい仏教』を詰め込んできたことが、仏教史の理解を歪めてきた。だが、そういうことは、そろそろやめてもよいのではないか」ということです。

大切なことであり、かつ理解していただきたいことは、私は「ゼロポイント」において、たしかに「パーリ経典から知られる限りでのゴータマ・ブッダの仏教」の性質について叙述しましたが、だからといって私は、「ゆえに、その『ゴータマ・ブッダの仏教』こそが価値が高い」とか、「この仏教こそが『正しい仏教』だ」とか、そういった価値判断は全く下しておらず、むしろその種の「本当の仏教・正しい仏教」流のナラティブに対しては、強く否定的であるということです。

大乗などの私たちに知られる仏教の諸思想は、その多くが、「初期経典から知られる限りでのゴータマ・ブッダの仏教」からは、何ほどか逸脱・離反しています。しかし、その逸脱・離反は「ゼロポイント」の言葉を使えば「覚者の選択の結果ではなく、選択を行う覚者のあり方を引き継いで」行われたのであって、それらは全て、圧倒的な多様性を含む「仏教」という思想運動の一側面として、同じく評価されるべきものなのであり、そこに価値の上下を設けることは不毛であると、私は考えます。

ただ、そうした思想的偉業に正当な評価を与えるためには、私たちは「自分にとって好ましい教説こそが、ゴータマ・ブッダの本当の仏教であるはずだ」と根拠なしに断定しがちな、自らの「はずだ論」への執著を離れなければなりません。「仏教3.0」に関してもそれは同じことで、私としては、「仏教3.0は、初期経典から知られる限りでのゴータマ・ブッダの仏教とは異なっているが、だからといって価値がないわけではない。むしろ話は全く逆で、現代日本人にとっては受け入れにくい教説をたぶんに含んでいるゴータマ・ブッダの仏教を、仏教3.0は批判的に乗り越えて、私たちが現代社会における現実の人生において実践できる仏教を説いてくれている。ゆえに、仏教3.0は素晴らしいのだ」ということで、全く問題ないのではないかと思います。実際のところ、なんのソースも根拠もないのに(今回の法話を含めて、管見の範囲では、山下先生は仏教3.0が「ゴータマ・ブッダの本来の仏教」であることの根拠を、具体的に示されてはいません。それは単に、「言い切られている」だけです)、文献に説かれた事実を無視する形で「仏教3.0がゴータマ・ブッダの本来の仏教だ」と断言してしまうことのほうが、私にとっては、仏教3.0の価値を毀損する行為であるように感じられる。

ただし、この「はずだ論」批判は、あくまで私の意見ですから、「初期経典の記述がどうあろうが、ソースや根拠がとくになかろうが、私は『仏教3.0』がゴータマ・ブッダの本来の立場であると確信しているし、それは私の宗教的実践の核心にある信念だから、動かすことは決してできない」と言われるのであれば、それは尊重いたします。

しかし、もしそうなのであれば、不用意に私の著作に言及して、公の場で「はずだ論」に基づいた批判を行うようなことは、慎んでいただきたいですね。『仏教思想のゼロポイント』において、私は文献的な根拠を示しながら「初期経典から知られる限りでのゴータマ・ブッダの仏教」の輪郭を描き出しましたが、それに対して「いや、『仏教3.0』こそがゴータマ・ブッダの本来の立場だったのだ」と主張される山下先生のご意見には何も根拠が示されていない以上、それは考え方を同じくしない他者にとっては、単に山下先生の個人的な「信仰」に過ぎません。

他人の信仰に文句をつける趣味は私にはありませんが、その信仰に基いて私を批判する人が現れれば、その場合には、「それは根拠が示されていない以上、単にあなたの信仰ですよね。単なる個人的な信仰に基づいて、他者がソースを出しながら丁寧に論じていることを批判するのはおやめになったらいかがですか」と、指摘せざるを得なくなります。


長くなりました。私自身としても、こんな長文を書くのは面倒きわまりない作業ですが、山下先生は一部の人たちに対する大きな影響力をおもちですので、こちらの立場を細々とでも公にしておくのは意義のあることだと思っています。

既述のように、私としては、今回のようなひどい誤解に基づいた「欠席裁判」が公開されなければ、こんな文章を書く気はありませんでした。ここで述べたような論点は、山下先生にはメールの形でご本人に直接指摘済みのことですし、藤田先生には何度も直接に申し上げています。それに対する応答を全くなさらないままに、私の居ない場で誤解に基づいた批判を行うこと、即ち、「自分の影を殴って、勝手に勝利宣言をすること」をされたことは、「実に卑怯だ」と感じたことは、率直に申し上げておきます。

山下先生に申し上げたいのは、今後は私の言っていることに何か疑問を感じたのであれば、陰でこそこそ言うのではなくて、ぜひ直接おっしゃっていただきたい、ということですね。私は逃げも隠れもしませんし、一法庵でもどこでも参りますので。私は山下先生のことは、一人の立派な仏教者として尊敬申し上げておりますので、とくに今回のようなひどいことがない限りは、こちらのほうで、先生に対して含むところはございませんから。


以上、よろしくお願い申し上げます。この文章は全体公開とします。シェア・リンクはご自由にどうぞ。


(※この文章は、5月23日にFacebook上で公開されたものです。これに対して山下良道先生が直ちに反応をされて、翌日5月24日に藤田一照先生も加えた一法庵鼎談が実現しました。両先生には、深く感謝いたします。)


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