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「国民性」とか「民族性」とか

昨年度に頼まれてやっていた日本語講座をまたやってくれというので、準備して教室に向かう。ところが生徒のほうが揃わない。聞けば、今日から開講だというのをみんな知らないのだという。ミャンマーの人たちは、いつもこんな感じである。

思いついた都合のいいことを、「あれをやってくれ、これをやってくれ」と頼むくせに、そのために必要な準備や根回し、総じて報・連・相を全くしない。まあ最近は私も慣れたので、「どうせそんなことだろう」と思っているから平気だが、まだミャンマーに来たばかりのころは、それでずいぶん腹も立てた。

もちろん、本当に物事がぎりぎりに迫ってくれば、そこではじめて騒ぎはじめて、周囲の人を巻き込みまくり、それで何とかことをやり過ごしてしまうのである。予定がきっちりしていないのは他の人たちも同じだし、みんな人はいいから、直前になってから必死に頼めば、誰かが助けてくれるので、それで最終的にはなんとかなるのだ。

だが、このように物事を進めていたら、効率が限りなく悪くなるのは当然である。何か言われた時に、日本人基準でそれをまともに受け止めて、きっちり仕事を遂行しようとすると、周囲が全くついてこないから、無駄骨な上に余計な怒りまでためこむことになる。結局のところ、ミャンマーで上手くやろうと思ったら、何事にもあまり本気になりすぎず、きっちりせずに、ほどほどに適当に全てを済ますのが最上だということになるわけだ。

こういう気質と仕組みで動いている社会の場合、人々が各自の持ち場で全力を出すということが(それをやっても疲れるだけなので)あまりないから、結果として全体が生み出す仕事の質と量は低下する。すると当然、生活の質もさほどに向上はしないから、あとは社会の人々が、それでも構わないと納得できるかどうかという問題になる。

例えば、いまのミャンマーは雨季である。雨季にはもちろん豪雨が降るのだが、そうすると、道路がだいたい足首の上くらいまで冠水する。たいへん歩きにくいし、車道の横なんて、常にスプラッシュマウンテンに乗っているような状態だ。私はそれを見るたびに、「雨は毎年降るんだから、もうちょっと道路の水はけを考えて、全体的なインフラの整備をきちんとやればいいのに」と思うのだけど、彼らにしてみればそれが当たり前の日常だから、そこでわざわざ金と手間をかけてインフラ整備をするよりも、とりあえずそのままにしておいたほうが、面倒がなくてよいのである。

こういうのは、日本人の基準からしたらちょっと信じがたいルーズさだが、もちろん、それはそれでよいこともある。何よりも、相互に監視しあい戒めあって、物事を上質に仕上げないと自他ともに許さないといったような、日本人的な社会の緊張感はない。だから例えば、ミャンマーでは自殺する人が非常に少ない。少し前に、日本では年に三万人ほどの人が自殺しています、という話をミャンマーの大学教授にしたら、ひどく驚かれて「ミャンマーで自殺する人なんて滅多にいないよ。いたとしても、原因は痴情のもつれとかだな」と言われたのはよく覚えている。要するに、「まともな人間ならこうあるべき」というプレッシャーが少ないから、自分が「まともな人間の基準から外れてしまった」と悲観して、自殺に至ることも少ないのである。

もちろん、こういうのは日本とミャンマーのどちらが優れているということではなくて、単にそれぞれの国民の気質が違うから、それが社会のあり方にも反映しているというだけのことである。ある観点からすれば欠点であることが、別の視点から見れば美点にもなっていて、それが社会を全体としてバランスさせている。「国民性」とか「民族性」というのは、そういうものなのだろうと思う。

※そういえば昨日のエントリ、当該書籍へのリンクを貼り忘れていた。『現代坐禅講義』『自由への旅』は、それぞれリンク先で入手可能。『自由への旅』は、PDF版を無料頒布しているので、ダウンロードしてご利用ください。


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