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善も悪も失うこと

ある著名な禅師の問答集を読む機会があったのだけど、これがなかなか面白かった。

「悟りを実体視するな」とはよく言われるが、彼は自身に悟りの体験自体はあったとしている。ただ、それを実体視してしまうとまずいのは、法(悟り)の観点からした時の、この身の不十分さを問題にしてしまうようになるからだと彼は言う。身も法も善も悪も脱落してしまうのが「悟り」なのに、それを善悪の物語の中で実体視してしまうと、「悟ったはずなのになぜ善く・完全に振る舞えないのか」といったような、余計なことを考えてしまうということだ。

ここは仏教を考える上で、一つ大切なポイントだ。いつも言っているように、「悟り」のための瞑想を行った直接の結果として、「人格がよくなる」ことはない。「悟り」というのは上述のように善も悪も超えた(失った)ものなのだから、それを目指してゆく行為も、当然、世俗的な意味での善悪とは関わりがないのである。

いつも言っていることだが、仏教の基本的な立場は、金持ちだとか貧乏だとか、五体が満足だとか不満足だとか、恋人がいるとかいないとか、そういった外的な諸条件は、それがいかにあろうと、人間の根本的な幸福とは、いっさい何も関係ないということである。要するに、状況が良かろうが悪かろうが、それとは何の関わりもなく、人間は幸福でいることができるということ。

「人格」の善し悪しという問題についても、もちろんそれは同じことで、現代という特定の時代において、例えば日本という特定の地域の人々が有している、偶然的な善悪の物語の中において、「よい人」だと評価されるかどうかなどといったことは、仏教の根本的な立場からすれば、どうでもよいことなのである。

上記の老師は、人格的によくなるといったことは二の次、三の次であると明言し、別に畜生のようであってもよいのだと言う。それよりも、身も法も善も悪も、本来不生だとはっきり知ることのほうがずっと大切で、それがこの世で最も価値のあることなのだというわけだ。(だからもちろん、善も悪も超えたその境地のことを、お望みであれば「至善」とか「上善」と呼んでもよい。)

もちろん、言うまでもないことだが、「善も悪も超える(失う)」というのは、その境地に自らの安心立命の根本を置くということであって、そこに至った人が敢えて悪を為すということではない。わざわざ悪を為して他者を害するなどということは、まだ善悪の物語に囚われていることを、むしろ証明するようなものだ。

ただ、理解しておかねばならないことは、仏教はその根本義としては、「人格がよくなる」ことを目指すものではない、ということである。もちろん「悪くなる」ことを目指すわけではないのだが、少なくとも世俗的な意味で「よくなる」ことが、仏教の究極的な目的では決してない。

そういう事情だから、「人格がよくなる」ことを謳う「仏教」には用心が必要である。もちろん、仏教というのは多様なものだから、そういう(人格をよくするような)教えが存在しないわけではない。ただ、究極の目的がそれではない以上、「人格がよくなる」と謳う仏教には、その場合の「善悪」の判定基準に色々なカラクリが追加されている。そこには注意しておかないと、思わぬ陥穽にはまってしまうことも、ひょっとしたらあるかもしれないということである。

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