見出し画像

押しつけたいならコソコソするな

昨日のエントリでは、私のことをどうしても「仏教徒」にしたがる人たちについて記したが、そういえば不思議な人たちというのはもう一種類いて、それは「私が解説している価値観」を、なぜか「私自身の価値観」と同一視したがる人たちである。

例えば、私はしばしば、インド文化圏の人たちにとって業と輪廻の世界観が物語ではなくて「事実」であることを指摘し、その実情についても多少の解説を加えることがある。もちろん、その際に私は常に「インド文化圏の人たちからすれば」という形で語っていて、「私がそう考える」などとは一言も書いていないのだが、なぜか一部の人たちは、「ということは、ニー仏が輪廻を信じているのだな」というふうに解釈してしまうわけだ。

私にとっては、「このグループの人たちはこのように考える傾向がある」という事実を指摘し、その背景についても仔細に解説を加えることが、「私自身がそう考える」ということと全く別事であることは、言うまでもなく当然のことであるし、だからとくにそのことをいちいち断ったりはしないのだが、一部の人たちにはあまりそういう感覚がないようで、「これほど丁寧に解説をするからには、当然、本人もこの価値観を有しているに違いない」と、なぜか確信してしまうらしいのである。

結果として、私のもとには「あなたの信じている輪廻転生は、『科学的』には存在しないことが証明されていて~」みたいな、もう本当にどこから突っ込んでいいのかわからないような謎いちゃもんをつけてくる、イチャモナーの皆様が時々やってくる。この種の人たちには、基本的に説明も解説もまるで効力をもたないので、こちらの対応は、原則としてはスルー一択ということにならざるを得ないのだが。

それにしても、彼らが面白いと思うのは、「あなたはこう信じているみたいだけど」という決めつけと、「でも『実は』こうなんですよ」という彼ら自身の信念(価値判断/信仰)の告白が、セットになっていることがしばしば見られることである。推測するに、おそらく彼らは自分の「信仰」を他者に押しつけたくて仕方がなくて、その機会をいつも探しているのだが、あからさまにそれをやると自分が「信者」になってしまったような気がして嫌だから、とにかく無理やりにでも他者が「何かを信じている」ことにしてしまって、それに「客観的」な立場から突っ込みを入れるという、安全なポジションをとりたがっているのだろうと思う。

しかし、その「突っ込み」が本当に「客観的」なものならまだよいのだけど、彼らは事実判断と価値判断の区別にいちばん基本的なところでナイーヴな人たちだから、残念ながらその語るところは上述の例のようにお粗末なもので、それが生産的な対話に繋がることは、基本的にはないことがほとんどである。

私としては、そんなに自身の価値判断を表明して、それを他者に説き聞かせたいと思うのであれば、いちいち「相手が何かを信じている」という「設定」に頼ったりせずに、堂々と「私はこう信じます」と最初から言えばいいと思うのだが、なぜか彼らはそれだけはしたがらない。そして、その結果として、彼らの言動は、自分の信念を盲目的に他者に押しつけてしまうという、彼ら自身が忌み嫌っているところの「信者」的な行為そのものになってしまうのである。

私自身は、自分が価値判断をしている時には、「私はこう考える」「私はこれが嫌いだ」といった形で、できるだけ(価値判断と事実判断の峻別は、究極的には困難である)そのことを明示するようにしているのだが、そういう習慣のない人たちは、事実を価値にすり替え、価値を事実にすり替えて、「客観」を僭称した無自覚な押しつけを平気でやってくるので困ってしまう。

もちろん、上述のように、その種の人たちには基本的に「説明」や「解説」が効力をもたないので、結局はスルーを続けていくしかないのだが、いちいち面倒だなあと感じることには変わりがないので、やはり嘆息の日々なのである。


※今日のおまけ写真は、通りのモヒンガー(ミャンマー風にゅうめん)屋台。見られるように、基本的に麺は手づかみですw

ここから先は

0字 / 1画像

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?