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私の故郷の深海のこと――「両生」と「心のスペース」について

 昨日のエントリでも軽く触れたことなのだが、沼田牧師とのツイキャス対談で、私は「相談というものがわからない」という話をした。相談が「できない」ということではない。そもそも「相談」という概念自体が、もちろん語義の説明なら可能であっても、実感としてはシンプルに「わからない」ということである。

 相談が「できない」というのは、本当はそうしたほうが当人にとってはよりよいだろうと思われるのに、種々の理由によってそれが不可能な状態にあるということだ。たとえば上掲の文章や先日の対談において沼田牧師が語られていたように、男性がそのジェンダー特有の抑圧によってしばしば「泣けない」ことがあるというのと、これは同種の問題である。

 他方で、対談の時に私が述べた「相談がわからない」というのは、「言葉の意味はわかっているが、個人的な実感としては、その必要も効用も理解できていない」ということである。要するに、「本当はしたいのだけど抑圧ゆえに我慢している」とか、「したほうがいいとは思っているのだけどやり方がわからない」とか、そういった状態とは異なるということだ。

 もちろん、「必要も効用もわからないなら、自分はやらずにスルーしておけばよいだけだろう」と多くの人は思うだろうし、私もそう思うので、これまでいちいち「相談」について自身の所感を述べることはしないできた。ただ、それはそれとして、「世の中のかなり多くの人たちは、『相談』という行為に私にはわからない必要や効用を感じているらしいのだけど、あれはいったいなんなのか」ということに興味はあったので、言わば「相談マスター」であるところの沼田牧師との対談の機会に、ついつい年来の疑問が口をついて出てしまったという次第なのである。

 牧師からしたら「そう言われましても」という話題であるには違いなくて汗顔の至りというところなのだが、さすがに沼田先生は親切で、冷たくスルーしたりなどせずに、直ちに有益なサジェストをしてくださった。「そういえばニー仏さんは、他人に自己開示をさせるのはすごく上手いのに、自分の自己開示はしませんよね」と言われるのである。対談の最中にも述べたことだが、こうして改めて文字にしてみると、私はものすごく酷い人間のようだ(※もちろん沼田牧師に悪意はありません)。

 同じことはかつて牧師との個人的な会話でも言われたことがあるし、別の人たちから同様の指摘を受けたこともあるから、これはそれなりの割合の人が私について実際に感じていることなのだろうと思う。ただ、主観的にはその自覚はあまりなくて、私は自分を「わりとなんでも喋っちゃうほう」だと自己認識しているし、(他人のプライバシーに関わったり、コンプライアンス上の問題を生じたりしないような)自分だけのことについてなら、訊かれれば普通にホイホイ話してしまう。そもそも、基本的にツイッター等のインターネッツで、わりとなんでもダダ漏れにしているし。

 しかし複数の人に自己イメージとは乖離した印象を与えているということには理由があるだろうから、「ここには何かありそうだな」と思って放送後に少し考えていたら、また沼田牧師がヒントをくれた。

 ここで紹介されている奥田知志牧師のnote記事では、路上生活者の若者たちが「助けて」と言えない五つの理由が挙げられている。そのうち、最初の四つまでは「プライド」、「制度に対する無知」、「自己責任という社会の風潮」、そして「孤立」ということで、つまりは内的なそれであれ外的なそれであれ、何かしらの概念的に理解可能な「形のある」障害や抑圧によって、「相談できない」状態に本人が陥っているということだ。

 だが、奥田牧師が「これが一番大変」と言われる第五の理由は少し毛色が違う。当該のエントリから引用させていただこう。

どんな制度があるかも知っている、自己責任論は社会が無責任であり続けるための言い訳に過ぎないことも知っている。自分がどのような状態かも。にも拘わらず「助けて」と言わない。なぜか。「生きる意欲」が無いからだ。「その気になれない」からだ。(中略)かんじんなのは「もう一度生きようと思えるか」であり、「人の心に灯をともすこと」だ。自立はその後の話し。数値化することも、お金に換算するも出来ない。かんじんなものは見えないからだ。

 奥田牧師は『星の王子さま』の表現を踏まえつつ、「かんじんなものは見えない」と、卓抜な仕方で問題を切り出されているが、同じことを私の視点から換言するならば、「言葉にして概念的に理解や説明が可能なことの外側にも、かんじんなことは存在している」ということになる。たとえば「プライド」は(それ自体としては)「見えない」が、表現を通じてその存在が仮定され、言葉によって概念として把握されることで対象化されて、「問題」として意識的に取り扱うことが可能となる。だが、そのように概念的に判明に把握された問題を処理する意識自体を、その統制の外側から言わば「支える」ものが実は必要なのであって、それは性質上当然のこととして「問題化」することが難しいのだけれども、だからこそ「かんじん」なのではないか。

 このように奥田牧師の問題提起を私なりに解釈した上で受け取ってみると、冒頭に述べた「相談というものがわからない」という個人的な事態についても、それなりにすっきりした理解ができるように思われた。つまり私は、奥田牧師が「一番大変」と言われ、たしかに相談を最も必要とするであろうと思われる上記の困難については、従前の(主には仏教に関わる)行学を通じて、既に「けりがついて」いるのである。だから私が「相談」を自身とは縁遠いものに感じるのはある意味では当然だし、そしてこのことは、これも既述の「自己開示」の問題とも、実は深いところで関わっている。

 さて、既にまあまあ長く書いているのだが、ここでようやく「前置き」が終わりである。以下では、上述の問題に「けりがついた」ということの内実について主観的に率直なところを記述してゆくことにするが、もちろんずいぶんプライベートな事情にまで踏み込んで書くことになるし、また一部の業界では(たいへん不思議なことに)「けりがついていない」自分について書くのはよくても、自身の「けりがついた」ことについて書くのは快く思わない人たちが多いようなので、私としても面倒には巻き込まれたくないから、「かんじん」な部分は有料ということにしておく。

 叙述の順序としては、まず「相談と自己開示」について率直な言葉で改めて問題を整理した上で、そこにあり得た困難に「けりがつけられた」プロセスについて、現在の私の風光から表現する。ここでの鍵概念は「深海」と、それにまつわって私の生のあり方を特徴づける二つのモード(両生)だ。また最後に、ひょっとしたら同様の問題を切実に感じられているかもしれない方々に対して、ツイキャス対談でも語られた「心のスペース」という概念とも関連させつつ私が言えること、そして私の現在地と展望についても、ごく簡単にではあるが付記しておく。

 有料部分は「配慮」を減らして直截なところをそのまま書くので、分量はさほどにはならないと思うけれども、実感をありのままに書いてゆくぶん、「わかる人にはものすごくよくわかるが、わからない人にはそもそも何のことを話しているのかすらさっぱりわからない」という記述になることは避けられない。ゆえに重度のニー仏マニアであるか、そうでなければここまでの長い「前置き」を読んで、何かしら「刺さる」ところがあったり、あるいはご自身にとってリアルな問題に関してどこか参考になることがあるかもしれないと感じられた方々にだけ、ご購読をいただければと思う。

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