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尚有些子郷愿的意思在

 大昔に書いたエントリがなぜか少し話題になったようでなんだか嬉しい。2014年のエントリだから、『仏教思想のゼロポイント』が出るより前の文章である。

 ここに書いてあることは、『仏教思想のゼロポイント』にも当然反映されているが、とくに主題的には『悟らなくたって、いいじゃないか』において重点的に語っていて、この問題について言うべきことは、そこでだいたい言い尽くしてしまったような感がある。「瞑想すると上手くいくのではなくて、瞑想すると上手くいかなくても気にならなくなる」という表現も、本書の中で使ってあるし(p.184)。

 当時は「マインドフルネス」が微妙にブームだったこともあって、そういうことをきちんと伝えておくべき責務を(私が勝手に)感じていたということもあるだろう。いまとなっては、かつての騒ぎもずいぶん鎮静化したように思われるので、こういう実情を強調して語る必要性も、さほどになくなっているのかもしれない。

 ここまで書いて思い出したのだが、そういえば最近も上掲のエントリで、本質的には同根の問題について論じていた。やはり私は基本的な傾向として、「瞑想をやれば全て上手くいく」系の人たちの、「無作為をよそおう作為、活潑をよそおう遅鈍」が苦手らしい。

 ただ、このあたりはどこまでも「程度問題」なので、我ながら面倒くさいことだと思いつつ、最近の私はこれまで強調してきたこととは別の側面についても語っておきたくなっている。即ち、「瞑想をすることで、現実が『上手くいく』こともあるよ」ということである。

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