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ショートショート「世を渡る」

彼は、いつもとある小説を持ち歩いていた。それは「恥の多い生涯を送って来ました」との一文で幕を開けるのだが、彼にとっては彼自身の存在が恥のようなものらしく、仮に"生き地獄"というものがこの世に再現されるとしたら、それは彼の人生そのものかもしれない。

彼には、喜怒哀楽でいうところの怒りの感情が欠けていた。「温厚な人」と言ってしまえば聞こえは良いのだが、本来、人間として必要とする感情を欠落させていることは、単なる欠陥であり、彼の地獄をまた深めるに十二分な要素であった。彼は他人が何をしたところで「怒ることがない」が、それは彼自身が「傷つくことがない」とは同意にはならないからだ。

彼は、世を渡るに困らない美しい身なりをしていた。高い身長と長い手足、整った顔立ち、深みのある声は、女たちを惑わすには有り余るほどだ。その上、目に見えぬ地獄の色香に寄せられるのか、いずれにせよ彼に群がる女は尽きなかった。そしてその女たちは、揃いに揃って気性が荒く、どうにも弱い人間であった。ひとりは気に入らないことがあれば彼に物を投げつけ、またひとりは思い通りにいかないと彼に罵声を浴びせ、またひとりは理由もなく彼に暴力をふるった。

彼は、やはり怒ることがなかった。正確には、怒りの感情を欠いているのだが、その心中の乱れなき姿もまた女たちの荒い気性をさらに波立たせ、ますます不安定にさせた。女たちは、だんだんと躍起になり、あの手この手で彼を怒らせてみようと画策するものの、彼は静かに笑うだけで、その儚げな笑顔は女たちの命を手のひらで転がして楽しんでいるようにすら見えた。

彼には、恐らく女たちが越えようとしたがる川がいつも見えていたのだ。彼は、その川辺に立つ最後の守り人のようであり、しかし誰よりも真っ先にそれを渡ってしまう人でもあった。今となっては、その時に彼が何を考えていたのかは分からない。ただ、川の向こうに立った齢27の彼が、せめて彼自身に怒りを覚えているといい、と願ってやまない。

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