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小説『ネアンデルタールの朝』⑦(第三部第2章-2)

2、
断片的な考えが脈絡もなく頭の中をグルグルと駆け巡っている。時折、大勢の人の話し声のようなものが耳元に押し寄せてくるが、何を言っているのか聴き取れない。
苦しい……頭の中がうるさい……。
まるで人が行き交う東京駅の構内で布団を敷いて横になっているかのようだ。
「ああ!」
民喜は声を上げて起き上がった。スマホを手に取って時間を確かめる。
夜中の2時半。もう2時間以上、眠れないまま横になっている。ため息をついて立ち上がり、机の前に座ってパソコンの電源を入れる。

昼夜逆転の生活を何とか元に戻したいと思って、今夜は0時過ぎには床についた。睡眠導入剤の代わりにアルコール度数9パーセントの缶酎ハイを飲んで……。
500ミリリットルの酎ハイを飲むと、一気に酔いが回った。今なら眠れるかもしれないと思い布団に横になったが、しかし睡魔はまったく訪れてくれない。酔っ払っているはずなのに、体も疲れているはずなのに、色んな考えがめまぐるしく去来してきて眠ることができなかった。
再度、深いため息をつく。立ち上がったパソコンの画面が目に眩しい。ズキッと頭に鈍い痛みが走る。
部屋の電気を点けてみる。乱雑に散らかった部屋の様子が眼下に広がる。汗が沁み込んだ敷布団、クシャクシャになったシーツと毛布、その周囲に転がるビールの空き缶、脱ぎ捨てたままのシャツと下着……。外からの視線が気になった民喜は窓のカーテンを隙間なく締め直し、電気を消した。
暗い部屋の中をパソコンのディスプレイだけが青白く発光している。机の上に置いた小さなカレンダーを見つめる。
2015年10月8日(木)。
「木曜日か……」
しわがれた声で民喜は呟いた。
今週は一度も授業に出ることができていなかった。朝方に寝て夕方に起きる生活をしているのだから、授業に出られるはずもなかった。
「こっちさ帰って来てる間に、スーツ新調したらどうだ」――
フッと父の言葉が頭をかすめる。夏に帰省した際、父は自分にスーツを新調することを勧めた。結局、新しいスーツを買いに行くことはなかったが……。
いまの自分は就活どころか、授業に出ることさえできていない。この先、留年してしまったら、就活をしても意味はない。
「いつ帰れるんだ? それとも、もう帰れねえのか? はっきりしてくれ! はっきり教えてくれよ!」――
先のことについての話題が出た際、父を責める言葉を発してしまったことを思い起こす。チクリと胸に鋭い痛みが走る。
民喜はネットに接続して動画サイトにアクセスした。
色んなお笑い動画を見てみるが、まったく内容が頭に入ってこない。しかし、観るのを止めることもできない。目の前の映像を自分が観ているのか、それとも何者かに観させられているのか、よく分からない。……

ここ数日、民喜は折に触れて《水ヲ下サイ》という言葉を思い起こしていた。
原爆によって被ばくした人々が、その想像を絶する苦痛の中で発したこの言葉……。原民喜の小説を読んで以来、この言葉が胸の内をグルグルと回り続けていた。まるでその声と自分自身のどこか一部分が一体になってしまったかのようだった。
もちろん自分は広島の原爆を経験したわけではない。その凄まじい苦痛を知っているわけではない。けれども、自分もまたこの叫びに通ずる渇きを感じているのかもしれない。
自分の存在が「なかったこと」にされるとき。人は渇きを覚えるのではないか、と思った。
あの日、広島の人々は、アメリカが落とした原子爆弾によって、存在を否定された。「消えろ」――と、存在そのものを「なかったこと」にされた。
《水ヲ下サイ》との叫びは身体的な苦しみから来るものであると同時に、圧倒的な暴力によって自身の存在を全否定されたことから来るものでもあるような気がした。
だからこそ、民喜は次の一文に切実なものを感じていた。原民喜の中編『鎮魂歌』に記された文章だ。

《僕はひとり暗然と歩き廻って、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……
そうだ、泉こそはかすかに、かすかな救いだったのかもしれない。重傷者の来て呑む泉。つぎつぎに火傷者の来て呑む泉。僕はあの泉あるため、あの凄惨な時間のなかにも、かすかな救いがあったのではないか。泉。泉。泉こそは……。その救いの幻想はやがて僕に飢餓が迫って来たとき、天上の泉に投影された。僕はくらくらと目くるめきそうなとき、空の彼方にある、とわの泉が見えて来たようだ。それから夜……宿なしの僕はかくれたところにあって湧きやめない、とわの泉のありかをおもった。泉。泉。泉こそは……》

爆心地を歩き回りながら、原民喜はしきりに泉の存在を想っていたらしい。
《泉。泉。泉こそは……》
その後、自身の飢餓が迫る中で、彼は空の彼方に在る永遠の泉へと想いを馳せてゆくことになる。湧きやむことのない、永遠の泉の在りかへ。
しかし、この永遠の泉とは、一体どこにあるのだろう……?
結局、この泉は自分たち人類の儚い夢に過ぎないのではないか、とも思う。世界のどこを探しても、渇きを癒す泉など存在しないのではないか。……

チュ、チュン……。
窓の外から雀の鳴き声が聞こえてくる。
30分ほどで止めようと思っていたのに、結局、明け方まで動画を観続けてしまった。
一体、俺は何をしているんだろう?
カーテンの隙間から入り込んでくる朝の気配に脅威を感じ始める。
ようやく観念したようにパソコンをシャットアウトし、民喜は倒れ込むように布団に横になった。
頭まで毛布をかぶり、目を瞑る。瞼の裏に青白い光の残像が点滅している。
もう駄目だ、もう留年だ……。
民喜は胸の内で力なく呟いた。


*引用:『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、217頁)

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