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連載小説『ネアンデルタールの朝』②(第一部第1章‐2)

2、
4月初めのよく晴れた日の午後、大学本館前の広場に一人で座っている明日香を見かけたことがあった。

民喜の通う大学は東京の三鷹市の郊外にある。キャンパスは広々としており、緑も豊かだ。本館前の芝生広場は学生たちの憩いの場になっており、昼休みには多くの学生が集う。広場の中の小山のように盛り上がった二つの丘は通称「ばか山」と「あほ山」を呼ばれている。授業をサボってこの丘で寝てばっかりいるとバカかアホになる、というのがこれら風変わりな名前の由来であるらしい。

そのとき、彼女は片方の丘のふもと付近に座って、一人で本を読んでいた。
民喜自身はこの2年間、自分からすすんで芝生に腰を下ろしてみたことは一度もない。大勢の学生が楽しそうに話をしたり食事をしたりしている中、谷間の通路を俯きながら通り過ぎるのが常だった。
午後の遅い時間であるせいか、芝生広場には明日香の他、ほとんど人はいなかった。丘のふもとに腰掛ける明日香は淡いピンクのカーディガンを着て細身のジーンズを履いていた。
遠くに彼女の姿を認めた瞬間、何故かは分からないが民喜の心は激しく震えた。数日前に練習で会ったばかりなのに、懐かしいような、いとおしいような感情が湧き上がってきた。彼女のそばに駆け寄ってゆきたい――その衝動が民喜を捉えた。
一呼吸置いてから、民喜は勇気を出して彼女の方へ近づいて行った。
日光で温まった芝生の匂いが足元から立ち昇ってくる。その匂いは民喜の内に微細な快活さを喚起し、彼女の方へ向かうようにと背中を押してくれるようだった。

彼女との距離が数メートルになったとき、
「明日香さん」
思い切って声をかけてみた。明日香はパッと本から顔を上げ、
「あっ、民喜君。こんにちは」
ぱっちりとした切れ長の目で民喜を見遣った後、目を伏せ恥ずかしそうに微笑んだ。
そうして本を閉じ、芝生に置いていたカフェラテを手にもって、体を少し移動させた。
「あ、ごめんね、読書中」
「ううん、全然、大丈夫」
明日香が左にずれる素振りをしてくれたので、民喜は彼女の右隣に座ることができた。
すぐ隣に座る彼女から花のような香りが漂ってくる。民喜はいく分緊張しながら前を見つめた。
「よくここに来て、本読んでるの?」
前を向いたまま尋ねる。
「いや、普段はあまり来ないよ。今日は何となく。よく晴れて、気持ちのいい天気だし……」
「ふーん」
と頷き、チラッと彼女の横顔を見つめる。長い髪が微かに風に揺れている。ふっくらとした頬はほんのりと赤く染まっている。すべすべとして、まるでいまお風呂から上がったばかりのようだ、と思う。
明日香は民喜と同学年で、同じコーラス部に所属している。民喜はテナーパート、彼女はアルトパートを担当していた。遠くまで通る声ではなかったが、柔らかで、透明感のある歌声だった。
「何の本読んでたの?」
会話を続けなくてはと思い、質問を絞り出す。
「あっ、えーとね」
 明日香は手にしていた文庫本の表紙を民喜に見せ、
「谷川俊太郎さんの詩集」
と答えた。
「民喜君は谷川俊太郎さんは知ってる?」
「うん。名前は聞いたことある。確か、小学校の教科書に載ってたような」
「そうだね、谷川さんの詩はよく教科書でも取り上げられてるよ。私、谷川さんの詩がすごく好きで……。よく詩集をカバンの中に入れてるんだ」
「そうなんだ」
彼女は民喜の方に顔を向けながら、目は伏せたまま、
「谷川さんの詩はたくさん合唱曲にもなってるよ」
と微笑んだ。
「へー」
彼女から本を受け取り、パラパラと読んでみる。
一通りページをめくった後、
「ありがとう」
本を手渡すと、彼女は頷いて、
「私にとって、『朝』っていう曲が思い出の曲なんだ。谷川さんの詩をもとにした曲なんだけど……。中学3年の時、この曲で東北合唱コンクールに出場したの」
「そうなんだ。すごいね」
明日香の口から「朝」という言葉を聞いたとき、民喜は何かを思い出しそうな気持ちになった。心の奥の方で何かがうずいた気がしたが、それ以上思い出すことはできなかった。
「民喜君、今日はまだ授業あるの?」
「あ、いや、今日はもう終わり」
今日はコーラス部の練習はなかった。
「そう、私も今日は終わり」
何人かの学生が賑やかにしゃべりながら本館の入口から出てきた。明日香は学生たちの方に視線を向けた後、カフェラテとカバンを持ち、
「良かったら、正門まで一緒に歩かない? 桜がすごくきれいだし」
そう言って、恥ずかしそうに微笑んだ。

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