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連載小説『ネアンデルタールの朝』③(第一部第1章‐3)

3、
大学構内にあるバスロータリーから正門まで、およそ600メートルに及ぶ直線道路が走っている。通称、「滑走路」。「滑走路」の両側とその周辺にはたくさんの桜が植えられており、隠れた桜の名所となっている。
民喜は明日香と並んで、ゆっくりと並木道を歩いていった。ベビーカーを押す若い女性とすれ違う。桜が満開となるこの時期には構内は一般の人々にも開放されている。

「ちょうど満開で、きれいだね」
明日香が上を見上げて言った。
「うん」
彼女と一緒に桜を見上げながら、民喜の胸の内に「桜のトンネル」という言葉が浮かんだ。懐かしいような、苦しいような感覚が湧き上がってきた。
正門までまっすぐに続く桜並木を見つめる。いま自転車で通り過ぎていった学生の他、人の姿は見えない。
何か話題を探そうとしていた民喜は、ふと思いついて、
「明日香さん、さっき言ってた『朝』っていう曲、どんな曲?」
と尋ねてみた。先ほどから心のどこかで、この曲のことが引っ掛かり続けていた。
明日香はハッとしたように立ち止まり、民喜の顔を見た。民喜も立ち止まり、彼女の顔を見つめた。胸がドキッと高鳴る。今日初めて、彼女とはっきりと目が合った気がする。
明日香は並木道に立ち止まったまま、上を向いて、何かを思い起こすような表情をした。そして前を向き、大きく息を吸った後、

また朝が来てぼくは生きていた

と歌い始めた。
明日香の歌声を聴いた瞬間、民喜の心はまた激しく震えた。

ララララララララ ……

姿勢を正して、彼女の歌声に耳を傾ける。ラララ……と歌う明日香の背後で桜の花びらが雪のように舞っている。
 
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを 

初めは控えめだった歌声が、だんだん伸びやかなものになってゆく。普段はアルトパートを歌っている彼女が主旋律を歌うのも新鮮に感じた。
間奏のラララ……を歌っていた明日香は突如、声を詰まらせた。明日香は目に涙を浮かべていた。
「ごめんなさい」
そう呟いて顔を民喜の方に向けた。すると彼女の目から涙が零れ落ちた。
「だ、大丈夫?」
民喜はどうすればよいか分からず、オロオロと明日香に向かって手を伸ばした。明日香は鼻をすすり、微笑みながらコクンと頷いた。手で素早く涙をぬぐい、そうして再び前を向いて歌い出した。

百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前な所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ ……

目を赤くして『朝』を懸命に歌う彼女の様子をジッと見守る。困惑と共に、胸の内にいとおしさが湧き上がってくる。
なぜ明日香さんが泣いているのか、分からない。けれども、いまここで彼女がこの歌を歌うことには、大切な意味があるのだと思う。
周りの世界がシンと静まり、ただ彼女の歌声だけが響いている。民喜は自分がいま、何か厳粛な時間に立ち会っているような気がした。
歌っている内に、明日香の歌声はまたどんどん伸びやかなものになっていった。体は自然な感じで揺れ、口元には微笑みも浮かんでいる。不思議なことに、並木道を歩く人は誰もいない。

最後まで歌い切った明日香は目を閉じ、ホッとしたように息を吐いて、
「こういう曲……。私、大好きなの」
と呟いた。
静まり返っていた世界が再び音を取り戻し始める。民喜はハッと我に返ったようにパチパチと小さく拍手をし、
「ありがとう」
と礼を言った。明日香は目の端をぬぐい、
「こちらこそ、ありがとう、民喜君。聴いてくれて」
民喜の顔を見つめ、ニコッと笑った。可愛らしい八重歯がはっきりと見えた。
「すごくいい曲だね」
頬と耳を赤く染めた明日香は嬉しそうに頷いた。こんなに子どものような無邪気な笑顔を浮かべる彼女を見たのは初めてのことかもしれない。
今日、この桜並木で、この歌を聴くために、自分は彼女に話しかけたのだ――ということを民喜は理解していた。何故かは分からないが心の深いところでいま、そのことを納得していた。

しばらくの沈黙の後、明日香は桜並木の方に視線を移し、
「悲しい時は、いつもこの曲を思い出して、歌ってた。すると勇気が出て来るというか、それでも、やっぱり生きて行こう、って気持ちになる」
そうして彼女は民喜の目を見つめた。逸らすことなく、まっすぐに――。民喜を見つめる明日香の目には悲しみが宿っていた。と同時に、その悲しみの向こうには小さな、しかし確かな光が宿っていた。



*引用:谷川俊太郎『朝』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、220頁)

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