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【第二部完結】『ネアンデルタールの朝』第二部第5章まとめ(⑲~㉔)

タイトル

第5章

1、
ドアを開けると、40代前半くらいの体格のよい男性が段ボール箱を抱えて立っていた。
「お届け物です」
母からの荷物が届いたようだった。
民喜が段ボールを受け取ろうとすると、
「重いですよ」
男性は箱をいったん床に降ろした。
「サインお願いします」
伝票を受け取り、靴箱の上に置いてサインをする。差出人を見る。やはり母からだ。
「ありがとうございました」
配達員の男性は小さく礼をして出て行った。
腰を痛めないように気を付けつつ、ゆっくりと段ボール箱を持ち上げる。確かに重たい。10キロ以上あるかもしれない。
台所へ荷物を運びながら、配達員の男性から見ると自分はよっぽどひ弱に見えたのかもしれない、と思う。
床に降ろし、ガムテープをはがして開封をする。段ボールの中には米袋とたくさんの野菜が入っていた。
玉ネギ、ニンジン、オクラ、レンコン、ショウガ、ゴボウ。ゴボウはまだ獲って来たばかりであるかのように黒い土がついている。奥の方にはサツマイモとジャガイモも見える。
紙袋の中には幾つかのリンゴが入っている。リンゴの甘い香りが鼻をくすぐる。リンゴの上に、母からの手紙が添えられていた。

民喜へ、
新しい学期が始まって数週間が経ちましたが、元気にしていますか。
この夏は民喜が長く帰省してくれて嬉しかったです。咲喜もとても喜んでいましたよ。
リンゴとお野菜とお米を送ります。リンゴ(早生ふじ)は青森の山本さんが今年も送ってくださったもののおすそ分けです。お野菜は北海道で有機農法をしている菊池さんから送ってもらったものです。
色々と忙しいと思いますが、なるべく自炊をするようにしてね(食品はいろんな種類をまんべんなく食べるようにしてください。また、野菜や魚を買う際は、念のため産地も確認するようにしてください)。
レシピを同封したので、参考にしてみてください。
ではでは、くれぐれも体には気をつけてね。
                     母より

米袋とリンゴが入った紙袋の間に、オレンジ色のクリアファイルが差し込まれているのに気が付く。ファイルの中には母の手書きのレシピが入っていた。タイトルは「免疫力を高めるためのレシピ」。
「レンコンの炊き込みご飯」、「オクラ入りカレー」、「リンゴとショウガのスープ」……。数枚の紙にびっしりと手書きのレシピが記されている。「免疫力を高めるため」というのはもちろん放射能の影響を心配してのことだろう。
レシピを冷蔵庫の扉にマグネットで留める。母の文字を見つめている内に、民喜の胸の内に母への申し訳なさが込み上がって来た。
最後に自炊をしたのは、一体いつだろう。この半年ほど、一度も自分で料理を作っていない気がする。今晩もすでに外で夕食を済ませてしまっていた。
みぞおちの上に手を当てる。胃の痛みは消えていたが、依然として重苦しい感覚が残っていた。
母への申し訳なさを埋め合わせるかのように、民喜はリンゴを一つ手に取った。
流し台の前に行き、リンゴをザッと洗う。戸棚からまな板と包丁を取り出す。普段ほとんど使うことのないまな板と包丁は、まるで新品のようだ。
リンゴを手に持ち、テレビでよく見るように皮を剥こうとするがうまく剥くことができない。しばらく格闘している内に、親指を切ってしまいそうになる。皮を剥くのはあきらめ、果実をまな板の上に置いて皮ごと切ることにする。まず半分に切って、それをさらに半分に切り分け、最後に芯の部分を取り除いて皿の上に並べた。
リンゴを盛った皿を持って机に向かう。椅子に座り、早速一口食べてみる。口の中にリンゴの甘みと酸味が拡がる。みずみずしく、とてもおいしいリンゴだった。
リンゴをほおばりながら、民喜は今日の大学での出来事を思い起こしていた。

今朝、民喜は2回続けて休んでしまった倫理学の授業に、力を振り絞って出席した。
席に座っていると、他の学生たちが白い目や好奇の目で自分を見ているような気がした。カバンからスマホを取り出し、人さし指で意味もなくスクロールし続け、ジッとその視線に耐える。
後ろの席の方でクスクス……と女の子たちの笑い声がする。自分のことで笑っているのではないかと思い、民喜の頭からはますます血の気が失せていった。
誰かが入って来る気配がしたので顔を上げる。教授の姿を認めた民喜は立ち上がり、彼の元に駆け寄った。
民喜はこの教授の授業を1年生のときに一度受けたきりだった。髪の毛は大部分が白髪になっているが、年齢はまだ50代前半くらいだろう。大きな四角い黒ぶちの眼鏡をかけているのが特徴だ。いつも微笑んでいるようでいて、眼鏡の奥の目はまったく笑っていない人だった。
「あの、すみません。先週、先々週と休んでしまいました。すみません」
叱責されることを覚悟しつつ頭を下げる。すると教授は、
「あ、そう」
黒ぶち眼鏡の奥の細い目で民喜を一瞥し、それ以上何も言わずに教務手帳を開いた。
「君、名前は?」
「あっ、はい、佐藤民喜です」
「これからは来るのね、ちゃんと」
「あっ、はい」
教授は手帳に目を遣ったままフーッとため息をつき、
「12月18日、発表できる? テキストの第8章」
第8章がどのような内容なのかも分からないまま、反射的に、
「あっ、できます」
と答える。
「そう、じゃ、それで」
教授は教務手帳をパタンと閉じて、教卓の方に向かった。その場に取り残されたかたちになった民喜は周囲を見回した後、慌てて自分の席に戻った。戻り際、前の方の席に「もっちゃん」らしき人物が座っているのが視界の隅に入った。
椅子に座ると、血の気が引いていた頭に今度はカーッと血が上ってきた。
クスクスクスクス……。
教室のざわめきのすべてが自分を嘲笑う声のように聞こえた。……

リンゴを食べ終えた民喜はスマホを手にとって、母にラインのメッセージを送った。今日すでに何十回も思い出してしまっている嫌な記憶を振るい落とすようにして――。
「荷物届きました。ありがとう。リンゴおいしかったです」


2、
秋の定演まで残り2週間となった。
明け方まで起きていた民喜は3時間ほどの仮眠を取った後、何とか起き出して練習に向かった。
頭がぼんやりとして怠かったが、力を振り絞って練習室のある西棟の階段を上る。土曜日の今日は朝の10時から練習が予定されていた。
313号室に到着すると、もう開始時間ギリギリだった。練習室には民喜以外の部員は皆、すでに集まっているようだった。
「民喜っち、おはよう」
パートリーダーの中田悠が声をかけてくる。
「おはよう」
無理して笑顔を作って、テナーパートの輪の中に入る。
正面の黒板に書かれた「秋の定演まで、あと14日!」という文字が目に留まる。赤と黄色のチョークで強調されたそれらの文字が心に重くのしかかってくる。
明日香の姿を探す。明日香は教室の後ろの方で、アルトパートの女の子たちと楽譜を見ながら何か相談をしていた。民喜が教室に入って来たことには気がついていないようだった。

「今回の定演、俺、無理かも」
休憩時間、民喜は中田悠に向かってこの2週間ずっと考え続けていたことを打ち明けた。
一緒に壁にもたれて座っていた彼は、
「えっ、何が」
目を大きく見開き、その中性的な顔立ちを民喜に向けた。
「みんなの足引っ張るだけだから……。ホント申し訳ないけど、俺は今回は出ない方がいいと思う」
そう言って民喜は自分の靴の先を見つめた。
今日の練習でも、やっぱりうまく歌うことができなかった。テナーパートの他のメンバーにまったくついてゆくことができない。本番2週間前だというのに、譜面通りに歌うことさえ覚束ない状態。焦れば焦る程、のどの筋肉はますますこわばってゆく。歌いながら、(もう無理だ)と民喜ははっきりと悟った。
「そんなことない。まだあと2週間あるじゃん。頑張ろうよ」
中田悠は困惑した表情で、
「このメンバーで歌うのは最後になるかもしれないんだから」
そう言われると、民喜は気持ちが揺らいでしまった。確かに、このメンバーで歌うことができるのは今回が最後になるかもしれない。明日香とも一緒に定演に出たかった。
でも――。
自分にはもう定演に参加するだけの力がないことを民喜は理解していた。
顔を上げると、いつの間にか他のテナーメンバーも周りに集まり、民喜の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「民喜っちの声が必要なんだよ」
中田悠が珍しく、力のこもった口調で言った。
俺の声が必要?
不可思議な想いで中田悠の顔を見つめ返す。そんなこと、考えたこともなかったが……。
「民喜さんは俺らテナーのムードメーカーですよ。民喜さんがいてくれないと困りますよー」
一年後輩の榎本が、困っているような、笑っているような表情で言った。
ムードメーカー? 俺が、テナーの?
それも、考えたこともなかった。自分なんかいなくても何も問題ないだろう。何の問題もなく、素晴らしい定演になるだろう、と思う。
皆に心配そうな表情で見つめられている状況に耐え切れず、
「うん、分かった。ごめん。変なこと言って」
民喜は無理して笑顔を作り、そそくさと立ち上がった。
「頑張るわ」
口からつい、「頑張る」という言葉が出てしまう。
中田悠たちはホッとした表情になり、
「よかった」
と口々に言った。
「驚かせないでくださいよー」
榎本はおどけた調子で民喜の肩を叩いた。
「ごめん、ごめーん。いまの、なかったことにして」
同じくおどけた調子で返しながら、民喜は全身が脱力してゆくのを感じた。


3、
練習から帰宅すると、民喜は夕ご飯も食べずに寝てしまった。心身共に、疲れ切っていた。首や背中の筋肉も異様に凝り固まっていた。
重苦しい夢を断続的に見た後、目を覚ましたのは夜の11時前。中途半端な時間に目が覚めてしまった。このまま朝まで寝てしまおうかとも思ったが、母に送ってもらった大量の野菜の存在が気にかかっていた。そう言えば、さっき見ていた夢の中にも段ボール箱に入った野菜が出て来たような気がする。
頑張って、料理しないと……。
民喜は起き上り、気怠い体を引きずるようにして台所に向かった。

まずお米を研いで、電子ジャーの炊飯のセットをする。思えばお米を炊くこと自体、久しぶりだった。
冷蔵庫の扉に貼ってある母の手書きのレシピを手に取って眺める。オクラ入りカレーが比較的簡単に作れそうだったので、レシピを参考に作ってみることにした。
段ボールからニンジン、ジャガイモ、玉ネギ、そしてオクラを取り出す。流しで洗い、ピーラーで皮を剥き、慣れない手つきで切ってゆく。このように自分で料理をするのは、本当に久々のことだ。
オクラのヘタを切り終えたとき、肝心のカレーのルーがないことに気づいた。
「あー、そっか」
思わず声を上げる。
「何だよ、もう」
ため息をつきつつ、仕方なく近くのコンビニまで買いに行くことにする。ちょうど冷蔵庫の中のビールが切れていたので、それも併せて買っていこう。
 
カレーが完成したときにはすでに日付が変わっていた。コンビニに行った時間を差し引いても、調理に1時間近くかかってしまったことになる。
カレーはもっと手軽に作れる料理であるはずなのだけれど……。カレーを一品作っただけで、何だかドッと疲れてしまった。
食べ始めようとした民喜はスプーンを一端皿の上に置いてスマホを手に取った。初めて作ったオクラ入りカレーを記念に写真に撮っておこうと思う。
机の上に散らかっている物を端に寄せ、空いたスペースにカレーを置いて撮影をする。写真で見ると具にオクラが入っていることはあまりよく分からなかったが、ちゃんと自炊をした証拠として、後で母にラインで送ってあげよう。
カレーを一口食べ、
「うん」
民喜は頷いた。思いのほかおいしい。オクラもよくカレーに合っていた。
あっと言う間に食べ終わり、おかわりをするために民喜は立ち上がった。
二杯目のカレーをお皿に盛り、コンビニで買って来た500ミリリットルの缶ビールを冷蔵庫から取り出す。机の前に座り、缶の蓋を開けて誰もいない空間に向かって乾杯をする。おかわりのカレーも民喜はすぐに食べ終えた。
疲れてはいたが、久しぶりに自炊をしたことの達成感が民喜の気持ちをわずかに高揚させていた。鼻歌を歌いながら、空になった皿を台所の流しに持ってゆく。
スポンジに洗剤をつけて皿を洗っていると、ふと、
これを明日もやるんだ。
と思った。
民喜は鼻歌を歌うのを止め、まな板の上の野菜の皮に目を遣った。
これからこの作業を日常的に行ってゆかねばならない、ということに民喜は思い至った。母が言うように、買い物の際は産地を確かめつつ、免疫力を高めるための食事に気を配りつつ。放射能の影響を気にかけながら、これから先、何年も、何十年も――。
高揚していた気持ちはたちまち萎えてゆき、再び重苦しい疲労感が民喜をとらえた。
(あ、しんどい)
心の中から声がした。
果たして自分にできるのだろうか。果たして、頑張ってゆけるのだろうか……。
「戦争法案、絶対反対!」
「戦争法案、絶対反対!」
「憲法守れ!」
「憲法守れ!」
民喜は以前参加した国会前のデモを思い起こしていた。
大勢の若者たちがひしめく中、隣にいる山口凌空と一緒になって自分も声を上げようとした。が、のどがキュッと締め付けられたようになって大きな声を出すことができない。
(あ、しんどい)
そのときも、心の中からこの声がしていた。民喜は自分にはここに立って声を上げ続けるだけのエネルギーがないことを思い知った。
「しんどい」
流しの前に立ち尽くしていた民喜は、誰もいない空間に向かって呟いた。


4、
青色の服を着た中年の男性が落ち着いた口調で話をしている。※
「直ちに人体に影響を与える数値ではない……」
「……この点についてはご安心いただければと思います」
「……外で活動したらただちに危険であるという数値ではありません」
避難所に置かれたテレビを食い入るように見つめていた父は、深く息を吐き、
「よかった……」
と呟いた。
周囲にいた大人たちもホッとした表情で、
「20キロから30キロ圏内でも直ちに健康に影響はないそうだ」
「大丈夫だそうだ」
とささやきあっている。
脱力したようにしばらく頭を垂れていた父は顔を上げて、
「晶子、とりあえず、一安心だ」
母に話しかけた。疲れ切った表情をしていたが、緩んだ父の口元には深い安堵の想いが浮かんでいる。父の様子を見て、民喜もようやくホッとした気持ちを取り戻した。
しかし母の方を見ると、母は口を堅く結んで、張り詰めた表情をしたままだった。母は父ではなく別の方を見つめていた。
瞬間、民喜は何か胸騒ぎのようなものを感じた。
母は黙ったまま、ウトウトとしている咲喜を胸に抱き寄せた。何だか母だけが、その場の雰囲気と隔絶されているように感じる……。

…………

突如として意識の表層によみがえってきた光景に民喜は衝撃を受けた。
思わず布団の上に座り込む。動悸と一緒に、強い不安が込み上がってくる。
コーラス部の練習を終えて帰宅し、ぼんやりとネットニュースを眺めていた民喜に、また事故直後の記憶が襲い掛かってきた。それは原発事故が起きてから5日後の避難所での記憶だった。
「お父さんと離婚してでも、あなたたちを連れて静岡に避難すればよかった」――
ネットニュースを読むともなしに眺めつつ、先日の電話での母の言葉を思い起こしていたら、いきなりこの避難所での記憶が意識に侵入してきたのだ。
何なんだ……?
あまりの不安感に息が苦しくなってくる。
民喜は胸の上に手を当て、ゆっくりと呼吸をして何とか自身を落ち着かせようとした。ここは避難所ではなく、アパートの一室であることを自分に言い聞かせる。
「直ちに人体に影響を与える数値ではない……」
「……この点についてはご安心いただければと思います」
「……外で活動したらただちに危険であるという数値ではありません」
テレビの中の男性の声が頭の中でグルグルと廻り始める。
画面を食い入るように見つめていた父は、
「晶子、とりあえず、一安心だ」
安堵した表情を母に向けた。しかし、母は口を堅い表情のまま、別の方向を見つめていた。
父ではなく、別の方を見つめている母の姿を見たとき――。民喜は胸騒ぎのようなものを感じた。
自分は予感をしていたのかもしれない。これから先、自分たちの身に何か悲惨なことが起こることを。
「直ちに人体に影響を与える数値ではない……」
「晶子、とりあえず、一安心だ」
思えば、あの瞬間が分岐点だったのかもしれない。悲惨なすれ違いの始まりだったのかもしれない。自分たち家族において。そして多分、この国においても……。

「お父さんと離婚してでも、あなたたちを連れて静岡に避難すればよかった」――
民喜がこれまで最も恐れて来た言葉。それが「離婚」という二文字だった。
この言葉が現実となることから目を背けるために、自分は福島を離れ、はるばる東京までやってきたような気もする。
民喜は立ち上がり、部屋の中をウロウロ歩き回った。今度は「離婚」という言葉が頭の中を駆け巡る。
そう言えば、先日の電話の最後に、母は気がかりなことを口にしていた。
「これから先のことについては、また近々、民喜にも相談するわ」
「先のこと……?」
「うん……。これから先、来年からのこと」
母は言葉を濁してそれ以上は答えなかった。
「先のこと……」
民喜は胸の内で何度も呟いた。
もしかして母さんは、咲喜を連れて静岡に避難するつもりなんじゃないか?
民喜はハッとして立ち止まった。
父さんはどうなる? 一緒に行くのか? いや、それは難しいだろう。じゃあ、別居か? いや、まさか離婚するつもりなのでは――。
「あっ!」
民喜は思わず大声を出した。
「あーっ!」
「離婚」という言葉がさらに激しい勢いで頭の中をグルグルと駆け回る――今までになく、現実味を帯びた言葉として。
民喜はスマホを手に取って、外に飛び出した。頭の中がどうにかなってしまいそうだった。
目的地も定めず早足で、細い路地を歩き続ける。
「まさか……本当に……。ひょっとして……」
呻くように独り言を呟きながら歩いている内に、広い通りに出た。いつも通学路として使っている道路だった。
気が付くと、民喜の足は大学の方へと向かっていた。

※2011年3月16日午後6時前に行われた枝野幸男官房長官(当時)の記者会見。


5、
「先のこと」を考えること――。
それが民喜にとって、最も苦痛な事柄の一つだった。何か陰惨なものが自分を待ち受けているような気がして、怖かった。

コンビニの前を通り過ぎようとしたとき、向こうの暗がりの方から弾けるような笑い声が聞こえた。学生とおぼしき数人の若者が歩いてくるのが見える。民喜は彼らを避けるようにして横断歩道を渡り、反対側の通路へ移動した。
東京スバルの看板を通り過ぎる。もう、すぐ隣が大学だ。
民喜は正門の前で立ち止まり、一瞬躊躇した後、大学の構内へ入っていった。この正門から、600メートルもの長さの直線道路が続いている。
夜の「滑走路」には誰も歩いていなかった。あちこちの茂みから涼しげな虫の音が聞こえてくる。
民喜は道路の真ん中に立って、しばらく佇んでいた。等間隔に置かれた外灯が桜並木を照らし出している。並木道の果てはぼんやりとした闇に覆われていて、何も見えない。
先の方を見ているうちに、民喜は改めて強い不安を感じた。

この先
帰還困難区域につき
通行止め 

看板②

バリケードの横に立てられた看板の言葉がよみがえってくる。民喜の目に、目の前の桜並木と故郷の桜並木とが重なって見えてくる。瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなる。

あの暗闇の先には、何があるのだろうか……? あの先にはきっと、陰惨な何か待ち構えているに違いない、と思う。
この先は、行き止まり。
この先は、真っ暗。
俺らの、先のことは――。
そう胸の内で呟いて、民喜は「滑走路」から立ち去ろうとした。すると前方からフッと風が吹いて来て、民喜の前髪を揺らした。頭上の桜の葉がサワサワと音を立てている中、

また朝が来てぼくは生きていた ……

彼女の歌声が聴こえた気がした。
ハッとして立ち止まる。葉音に交じって、一瞬、明日香さんの歌声が聴こえた気がした。ぼんやりとした闇に包まれた、あの先の方から――。


6、
民喜の脳裏に、満開の桜を背に歌を歌う彼女の姿が浮かんできた。
懐かしいような、いとおしいような……。胸の内を激しい感情が突き抜ける。
民喜は大きく息を吸い、体をわずかに後ろに逸らすと、全速力で前へと駆け出した。
(明日香さん――)
立ち並ぶ葉桜が視界の両端を通り過ぎてゆく。
はあ、はあ、はあ……。
自分の息遣いとアスファルトを蹴る靴の音とが頭に反響する。ぼんやりとした暗闇に向かって、民喜は走った。

思った以上に、600メートルは長かった。
途中で脇腹が痛くなる。民喜は脇腹を押さえつつ、痛みを堪えて走り続けた。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
ようやく大学構内にあるバスロータリーが見えてくる。スタミナが切れてすでにジョギング程度のスピードに落ちてしまっていたが、桜並木を抜け、さらに本館前の芝生広場を目指して民喜はヨロヨロと走り続けた。
本館前には誰もいなかった。シンと静まり返ったその空間は、たくさんの学生で賑わう昼間とは別の場所のようだった。
芝生広場に点在する外灯の明かりが「ばか山」と「あほ山」に淡い陰影を作り出している。大きくはないが、形よく盛り上がった丸い芝生の山……。その谷間の通りを、民喜は最後の力を振り絞って走り抜けた。
山のふもとに座る明日香の姿が浮かんでくる。あの日、彼女は芝生の上に腰かけて一人、谷川俊太郎の詩集を読んでいた。
片方の山のふもとに辿り着くと、民喜はドサッとそこに倒れ込んだ。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
こんなに走ったのは、久しぶりだった。高校のマラソン大会以来かもしれない。
仰向けに横になる。心臓がドクドクと激しく躍動し、体の表面からいっせいに汗が噴き出て来る。指先に触れる芝生は湿り気を帯びてヒンヤリとしていた。
4月のはじめ、ちょうどこの場所で、明日香さんと並んで座って話をした――。サワサワとした芝生の感触を背中に感じつつ、民喜は思い返した。
風に触れる彼女の長い髪。目を伏せ、恥ずかしそうに微笑む表情。ほんのりと赤く染まった頬……。
何だかすぐ隣に、彼女がいるように感じた。すぐ傍に彼女の存在を感じていた。
「民喜君は谷川俊太郎さんは知ってる?」――
彼女の声がよみがえってくる。ここで彼女と、谷川俊太郎の詩について話をした。そうして桜並木で、彼女はあの歌を歌ってくれたのだ。涙を流しながら――。

また朝が来てぼくは生きていた ……

民喜は頭の中で彼女の歌声を一緒になってなぞった。

先のこと。
明日香の歌声をなぞりつつ、民喜はこの言葉を何度も反芻していた。
先のこと。
母さんは、咲喜を連れて福島から「移住する」ことを、もう心に決めているのかもしれない。
俺があの町には「戻らない」ことをもう心に決めてしまっているように――。
湿った芝生の匂いが鼻腔をくすぐる。どこかすぐ近くから虫の声が聴こえてくる。空は雲に覆われていて、星は一つも見当たらない。
もしそうであるならば、俺はそれを受け入れるしかない。
民喜は両手で顔を覆った。
もう戻れない。あのとき以前には……。
目から涙があふれ、こめかみを伝って耳の方に落ちてゆく。
もう戻れない……。
心の奥底で凍り付いていた何かが溶け出したように、涙は次々とあふれ出てきた。……

どれくらい時間が経ったのだろう。放心したように夜空を眺め続けていた民喜の胸の内に、
「悲しい時は、いつもこの曲を思い出して、歌ってた。すると勇気が出て来るというか、それでも、やっぱり生きて行こう、って気持ちになる」――
明日香の言葉がよみがえってきた。
『朝』を歌い終えた後、彼女は民喜の目をまっすぐに見つめてそう言った。
そのまなざしには悲しみが宿っていた。しかしその悲しみの向こうには確かな光がともっていた。明日香の瞳に映るその光は、朝の光だったのではないか、と民喜は思った。
「朝の光」
胸の内で呟く。次の瞬間、
明日香さんに「ネアンデルタールの朝」を見てもらおう――
との考えがひらめいた。
その考えは、切実な感覚を伴って民喜の心を打った。
そう言えば、まだ彼女に「ネアンデルタールの朝」の絵を見てもらっていなかった。
どうしてこれまで、そのことに思い至らなかったのだろう?
彼女が歌う『朝』を聴いたからこそ、自分は「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに行くことができたのだ。
民喜はハッとして、夜の芝生の上に起き上がった。

                          (第二部 終)

*引用:谷川俊太郎『朝』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、220頁)

*本日のまとめの投稿で第二部は完結となります。これまでお読みいただきありがとうございました。第三部の連載は11月2日(月)より開始予定です。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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(お読みいただきありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします♪)

第二部のこれまでの連載はこちら(↓)をご覧ください。

第一部(全27回)はこちら(↓)。



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