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【第二部完結】小説『ネアンデルタールの朝』㉔(第二部第5章-6)

6、
民喜の脳裏に、満開の桜を背に歌を歌う彼女の姿が浮かんできた。
懐かしいような、いとおしいような……。胸の内を激しい感情が突き抜ける。
民喜は大きく息を吸い、体をわずかに後ろに逸らすと、全速力で前へと駆け出した。
(明日香さん――)
立ち並ぶ葉桜が視界の両端を通り過ぎてゆく。
はあ、はあ、はあ……。
自分の息遣いとアスファルトを蹴る靴の音とが頭に反響する。ぼんやりとした暗闇に向かって、民喜は走った。

思った以上に、600メートルは長かった。
途中で脇腹が痛くなる。民喜は脇腹を押さえつつ、痛みを堪えて走り続けた。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
ようやく大学構内にあるバスロータリーが見えてくる。スタミナが切れてすでにジョギング程度のスピードに落ちてしまっていたが、桜並木を抜け、さらに本館前の芝生広場を目指して民喜はヨロヨロと走り続けた。
本館前には誰もいなかった。シンと静まり返ったその空間は、たくさんの学生で賑わう昼間とは別の場所のようだった。
芝生広場に点在する外灯の明かりが「ばか山」と「あほ山」に淡い陰影を作り出している。大きくはないが、形よく盛り上がった丸い芝生の山……。その谷間の通りを、民喜は最後の力を振り絞って走り抜けた。
山のふもとに座る明日香の姿が浮かんでくる。あの日、彼女は芝生の上に腰かけて一人、谷川俊太郎の詩集を読んでいた。
片方の山のふもとに辿り着くと、民喜はドサッとそこに倒れ込んだ。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
こんなに走ったのは、久しぶりだった。高校のマラソン大会以来かもしれない。
仰向けに横になる。心臓がドクドクと激しく躍動し、体の表面からいっせいに汗が噴き出て来る。指先に触れる芝生は湿り気を帯びてヒンヤリとしていた。
4月のはじめ、ちょうどこの場所で、明日香さんと並んで座って話をした――。サワサワとした芝生の感触を背中に感じつつ、民喜は思い返した。
風に触れる彼女の長い髪。目を伏せ、恥ずかしそうに微笑む表情。ほんのりと赤く染まった頬……。
何だかすぐ隣に、彼女がいるように感じた。すぐ傍に彼女の存在を感じていた。
「民喜君は谷川俊太郎さんは知ってる?」――
彼女の声がよみがえってくる。ここで彼女と、谷川俊太郎の詩について話をした。そうして桜並木で、彼女はあの歌を歌ってくれたのだ。涙を流しながら――。

また朝が来てぼくは生きていた ……

民喜は頭の中で彼女の歌声を一緒になってなぞった。

先のこと。
明日香の歌声をなぞりつつ、民喜はこの言葉を何度も反芻していた。
先のこと。
母さんは、咲喜を連れて福島から「移住する」ことを、もう心に決めているのかもしれない。
俺があの町には「戻らない」ことをもう心に決めてしまっているように――。
湿った芝生の匂いが鼻腔をくすぐる。どこかすぐ近くから虫の声が聴こえてくる。空は雲に覆われていて、星は一つも見当たらない。
もしそうであるならば、俺はそれを受け入れるしかない。
民喜は両手で顔を覆った。
もう戻れない。あのとき以前には……。
目から涙があふれ、こめかみを伝って耳の方に落ちてゆく。
もう戻れない……。
心の奥底で凍り付いていた何かが溶け出したように、涙は次々とあふれ出てきた。……

どれくらい時間が経ったのだろう。放心したように夜空を眺め続けていた民喜の胸の内に、
「悲しい時は、いつもこの曲を思い出して、歌ってた。すると勇気が出て来るというか、それでも、やっぱり生きて行こう、って気持ちになる」――
明日香の言葉がよみがえってきた。
『朝』を歌い終えた後、彼女は民喜の目をまっすぐに見つめてそう言った。
そのまなざしには悲しみが宿っていた。しかしその悲しみの向こうには確かな光がともっていた。明日香の瞳に映るその光は、朝の光だったのではないか、と民喜は思った。
「朝の光」
胸の内で呟く。次の瞬間、
明日香さんに「ネアンデルタールの朝」を見てもらおう――
との考えがひらめいた。
その考えは、切実な感覚を伴って民喜の心を打った。
そう言えば、まだ彼女に「ネアンデルタールの朝」の絵を見てもらっていなかった。
どうしてこれまで、そのことに思い至らなかったのだろう?
彼女が歌う『朝』を聴いたからこそ、自分は「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに行くことができたのだ。
民喜はハッとして、夜の芝生の上に起き上がった。

                          (第二部 終)


*引用:谷川俊太郎『朝』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、220頁)

*本日の投稿で第二部は完結となります。これまでお読みいただきありがとうございました!  第三部の連載は11月2日(月)より開始予定です。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

第二部のこれまでの連載はこちら(↓)をご覧ください。

第一部(全27回)はこちら(↓)。



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