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小説『ネアンデルタールの朝』第三部第2章まとめ(⑥~⑩)

第2章

タイトル

1、
翌日、民喜は大学の授業をすべて欠席した。体が重く、布団から起き上がる気力が湧いてこなかった。まるで自分の内にあるすべてのエネルギーを使い果たしてしまったかのようだった。
布団の中に潜り込んで延々と眠り続け、ようやく起き上がった頃には窓の外は薄暗くなっていた。
時計を見る。夕方の5時前。いったい何時間寝てしまったのだろう? 布団から起き上がったまま、しばし茫然とする。
何とかしてコーラス部の練習にだけは出ようと思い、民喜は布団から這い出した。とりあえずお湯を沸かして、インスタントのコーヒーを淹れる。体は依然として重く、頭もぼんやりとしていてできるなら練習には行きたくない。しかし、秋の定演があと5日後に迫って来ていた。
熱いコーヒーを急いで飲み干し、民喜はアパートを出た。

クラブ活動室のある西棟に向かう間、民喜は同じ授業を受けている誰かとばったりと出くわさないか、気が気ではなかった。
人と顔を合わせないよう気を付けつつ、早足で薄暗い構内を歩いてゆく。校舎の窓には点々と明かりがともっている。歩きながら、どこかから誰かに見られているような気もしてきて、落ち着かない。
前方のチャペルにも明かりがともっているのが見える。聖歌隊が練習に使っているのかもしれない。
民喜は普段、学内のチャペルに足を踏み入れることはない。毎週水曜日の昼に学生を対象とした礼拝は行われているだが、自由参加なのをいいことにまったく参加はしていなかった。
礼拝堂から漏れ出る明かりを眺めつつ、西棟へと急ぐ。
そう言えば1年生の時に一度だけ、山口凌空に誘われて昼の礼拝に参加したことがあった。
正面に設置された立派なパイプオルガンの音色は確かに素晴らしかった。厳かで良い雰囲気だとは思ったが、礼拝中、ソワソワとして落ち着かなかった。何だか自分一人だけが、この場から浮き上がってしまっているような気がした。
そもそも、キリスト教の神に向かって祈るということがどういうことなのか、いまいちよく分からない。祈祷の最後に皆で「アーメン」を唱えることにも抵抗があった。
礼拝に参加したその日、隣に座る山口の様子をそっと伺っていると、彼も祈祷の最後の「アーメン」を言わなかった。「アーメン」を唱えないのは自分だけではないことを知り、民喜は少しホッとした。
そうだ、そう言えばその日、数列前の席に明日香さんが座っていたのだ。この頃から、すでに自分は彼女のことを大切に思っていたことに改めて気づく。
礼拝堂から顔を背けるようにして、その横を通り過ぎる。
でもやはりここの学生である以上、たまには礼拝にも顔を出した方がいいのだろうか……?
普段はまったく気に留めていないことが、なぜだか今日はひどく後ろめたく感じられた。

もうすぐ西棟に着くというとき、背後から、
「……出てない」
という声が聞こえた。
ギクッとして、立ち止まる。恐る恐る周囲を見回したが、近くには誰もいなかった。
「さぼってる」
背後の暗がりの辺りからまた声がした。
ハッとして振り返る。自分の後方には誰も歩いていない。でもいま、確かに声が聞こえた。
頭から血の気がひき、動悸がしてくる。
民喜は逃げるようにして建物の中に入った。
今の声は何だったんだ?
階段の手すりにつかまり、気持ちを落ち着かせようとするが、足腰に力が入らない。
誰かが自分に当てつけでそう言って逃げ去っていったのだろうか? でも、何のために?
一体何が起こっているのか、よく分からなかった。
もしかして、自分が授業やチャペル礼拝に出席していないことはすでに大学中に知れ渡っているのかもしれない、と思う。
部員たちに会うのが何だか怖くなったが、民喜は勇気を出してゆっくりと階段を上って行った。313号室のドアをそっと開け、中を覗く。教室はすでに授業を終えた部員で賑わっていた。
民喜はすがるような想いで、明日香の姿を探した。明日香は後ろの方の席に座って楽譜を眺めていた。
民喜は気配を消しながら教室の中に入り、壁際を伝って明日香のもとへ近づいていった。
「昨日はありがとう」
小声で声をかける。淡いピンクのカーディガンを着た彼女は顔を上げ、
「あっ、民喜君、こちらこそありがとう」
恥ずかしそうな表情で微笑んだ。
明日香の柔らかな微笑みと唇の隙間から覗く八重歯を見て微かにホッとする。
彼女と二人きりで映画を観に行ったことは部員には知られたくなかったので、礼だけを伝えて民喜はすぐにその場を離れた。

練習を終えて自分のアパートに戻ると、民喜はコンビニの弁当を開封するより先にビールを飲み始めた。大学の構内で聞こえた誰かからの悪口は、民喜の心に棘のように刺さり続けていた。
(出てない)
(さぼってる)――
まるで微弱な毒が注入されたかのように心のどこかがしびれている。そのせいで全身から力が奪われてしまっているかのように感じる。
1本目を一気に飲み終えた民喜は、2本目を取りに冷蔵庫に向かった。急速に酔いが回ってきて、頭がクラクラする。今日一日何も食べていないところにいきなりビールを一気飲みしたのだから、それはそうなるだろう。
冷蔵庫を閉めたとき、扉に貼っている母の手書きのレシピが目に留まった。思わず足もとの段ボール箱に視線を落とす。段ボールの中には母が送ってくれたお米、リンゴ、その他の大量の野菜が入っていた。
この10日ほどの間、料理をしたのは結局一度きり、オクラ入りカレーを作ったあのときだけだった。他の野菜は料理しないまま、冷蔵庫に入れることもしないまま段ボールの中に放置しっぱなしになっていた。
民喜は缶ビールを床に置き、箱の中からレンコンを1本取り出してみた。ところどころ黒く変色し、微かにプンと酸っぱい匂いがした。
胸にチクリと痛みが走る。母の心配そうな顔が瞼の裏に浮かんでくる。
リンゴやジャガイモなどはまだ食べられそうだった。母に申し訳ないと思いつつも、それらを手に取って料理をしようという気力はいまは湧いてこない。
母の手紙の言葉を思い起こす。なるべく自炊をするように。食品は色んな種類をまんべんなく食べるように。野菜や魚を買う際は念のため産地も確認するように……。
自分は何一つ実行することができていなかった。酸っぱい匂いのレンコンをゆっくりとまた箱の中に戻す。
酔っ払った頭で民喜はふと、
「自分はそもそも、健康に気を遣うに値する人間なのだろうか」
と思った。
母は免疫力を高めるためのレシピをたくさん自分に送ってくれた。放射能の影響を気にかけて――。
しかし、そこまでして放射能の影響を気にかけなければならない理由が自分にはあるのだろうか? その努力をこれから何年も、何十年も続けてゆく必要があるほど、自分は価値ある人間なのだろうか?
民喜にはそうは思えなかった。
自分がそれほどまでに大切な存在だとは思えなかった。
(俺らホモ・サピエンスそのものが、はじめから生まれて来ない方がよかったんじゃねえか)――
缶ビールを手に、ヨロヨロと立ち上がる。リビングの床にあぐらをかいて座り、まだ食べていなかったコンビニ弁当を開封する。
(出てない)
(さぼってる)――
またあの悪口が耳元によみがえってきた。
味気のないから揚げをほおばりながら、民喜は心の中で、
「母さん、ごめん」
と呟き続けた。


2、
断片的な考えが脈絡もなく頭の中をグルグルと駆け巡っている。時折、大勢の人の話し声のようなものが耳元に押し寄せてくるが、何を言っているのか聴き取れない。
苦しい……頭の中がうるさい……。
まるで人が行き交う東京駅の構内で布団を敷いて横になっているかのようだ。
「ああ!」
民喜は声を上げて起き上がった。スマホを手に取って時間を確かめる。
夜中の2時半。もう2時間以上、眠れないまま横になっている。ため息をついて立ち上がり、机の前に座ってパソコンの電源を入れる。

昼夜逆転の生活を何とか元に戻したいと思って、今夜は0時過ぎには床についた。睡眠導入剤の代わりにアルコール度数9パーセントの缶酎ハイを飲んで……。
500ミリリットルの酎ハイを飲むと、一気に酔いが回った。今なら眠れるかもしれないと思い布団に横になったが、しかし睡魔はまったく訪れてくれない。酔っ払っているはずなのに、体も疲れているはずなのに、色んな考えがめまぐるしく去来してきて眠ることができなかった。
再度、深いため息をつく。立ち上がったパソコンの画面が目に眩しい。ズキッと頭に鈍い痛みが走る。
部屋の電気を点けてみる。乱雑に散らかった部屋の様子が眼下に広がる。汗が沁み込んだ敷布団、クシャクシャになったシーツと毛布、その周囲に転がるビールの空き缶、脱ぎ捨てたままのシャツと下着……。外からの視線が気になった民喜は窓のカーテンを隙間なく締め直し、電気を消した。
暗い部屋の中をパソコンのディスプレイだけが青白く発光している。机の上に置いた小さなカレンダーを見つめる。
2015年10月8日(木)。
「木曜日か……」
しわがれた声で民喜は呟いた。
今週は一度も授業に出ることができていなかった。朝方に寝て夕方に起きる生活をしているのだから、授業に出られるはずもなかった。
「こっちさ帰って来てる間に、スーツ新調したらどうだ」――
フッと父の言葉が頭をかすめる。夏に帰省した際、父は自分にスーツを新調することを勧めた。結局、新しいスーツを買いに行くことはなかったが……。
いまの自分は就活どころか、授業に出ることさえできていない。この先、留年してしまったら、就活をしても意味はない。
「いつ帰れるんだ? それとも、もう帰れねえのか? はっきりしてくれ! はっきり教えてくれよ!」――
先のことについての話題が出た際、父を責める言葉を発してしまったことを思い起こす。チクリと胸に鋭い痛みが走る。
民喜はネットに接続して動画サイトにアクセスした。
色んなお笑い動画を見てみるが、まったく内容が頭に入ってこない。しかし、観るのを止めることもできない。目の前の映像を自分が観ているのか、それとも何者かに観させられているのか、よく分からない。……

ここ数日、民喜は折に触れて《水ヲ下サイ》という言葉を思い起こしていた。
原爆によって被ばくした人々が、その想像を絶する苦痛の中で発したこの言葉……。原民喜の小説を読んで以来、この言葉が胸の内をグルグルと回り続けていた。まるでその声と自分自身のどこか一部分が一体になってしまったかのようだった。
もちろん自分は広島の原爆を経験したわけではない。その凄まじい苦痛を知っているわけではない。けれども、自分もまたこの叫びに通ずる渇きを感じているのかもしれない。
自分の存在が「なかったこと」にされるとき。人は渇きを覚えるのではないか、と思った。
あの日、広島の人々は、アメリカが落とした原子爆弾によって、存在を否定された。「消えろ」――と、存在そのものを「なかったこと」にされた。
《水ヲ下サイ》との叫びは身体的な苦しみから来るものであると同時に、圧倒的な暴力によって自身の存在を全否定されたことから来るものでもあるような気がした。
だからこそ、民喜は次の一文に切実なものを感じていた。原民喜の中編『鎮魂歌』に記された文章だ。

《僕はひとり暗然と歩き廻って、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……
そうだ、泉こそはかすかに、かすかな救いだったのかもしれない。重傷者の来て呑む泉。つぎつぎに火傷者の来て呑む泉。僕はあの泉あるため、あの凄惨な時間のなかにも、かすかな救いがあったのではないか。泉。泉。泉こそは……。その救いの幻想はやがて僕に飢餓が迫って来たとき、天上の泉に投影された。僕はくらくらと目くるめきそうなとき、空の彼方にある、とわの泉が見えて来たようだ。それから夜……宿なしの僕はかくれたところにあって湧きやめない、とわの泉のありかをおもった。泉。泉。泉こそは……》

爆心地を歩き回りながら、原民喜はしきりに泉の存在を想っていたらしい。
《泉。泉。泉こそは……》
その後、自身の飢餓が迫る中で、彼は空の彼方に在る永遠の泉へと想いを馳せてゆくことになる。湧きやむことのない、永遠の泉の在りかへ。
しかし、この永遠の泉とは、一体どこにあるのだろう……?
結局、この泉は自分たち人類の儚い夢に過ぎないのではないか、とも思う。世界のどこを探しても、渇きを癒す泉など存在しないのではないか。……

チュ、チュン……。
窓の外から雀の鳴き声が聞こえてくる。
30分ほどで止めようと思っていたのに、結局、明け方まで動画を観続けてしまった。
一体、俺は何をしているんだろう?
カーテンの隙間から入り込んでくる朝の気配に脅威を感じ始める。
ようやく観念したようにパソコンをシャットアウトし、民喜は倒れ込むように布団に横になった。
頭まで毛布をかぶり、目を瞑る。瞼の裏に青白い光の残像が点滅している。
もう駄目だ、もう留年だ……。
民喜は胸の内で力なく呟いた。

*引用:『夏の花・心願の国』(新潮文庫、1973年、217頁)


3、
大学へと続く通りが夕陽で明るく照らし出されている――はずなのに、その明るさが感じられない。目に映る風景は色彩と奥行きを失い、まるで一枚のモノクロ写真のよう。グレースケールの風景の中を、かろうじて夕陽のオレンジが淡く発色している。
夕方になってようやく起き出した民喜は、力を振り絞ってコーラス部の練習へと向かった。
正門をくぐり、大学の構内に入る。定演はもう明後日、練習は最終調整の段階に入ろうとしていた。
大学の敷地に足を踏み入れた途端、首と背中の筋肉がみるみるうちに硬くなってゆくのが分かった。
「滑走路」の脇の歩道を100メートルほど歩いたとき、背中に誰かからの視線を感じた。振り返ろうかと思ったが、我慢してそのまま早足で歩き続ける。気のせいだろうと自分に言い聞かせる。が、視線は容赦なく背中の筋肉を圧迫してきた。
さらに数十メートルほど歩き続けていると、
「デモに参加しなかった」
と声が聞こえた。民喜はギクッとして、思わず立ち止まった。明らかに自分に向けられた言葉だった。
後ろを振り返ろうと思ったその瞬間、自転車に乗った学生が民喜を勢いよく追い抜いて行った。見知らぬ青年だった。彼が言ったのだろうか?
頭から血の気が引いて、胸が押し付けられているかのように苦しくなってくる。
その場に呆然と立ち尽くす民喜の耳に、
「弱虫」
「意気地なし」
「無責任」
今度はどこからか、複数の人がヒソヒソささやく声が聞こえてきた。辺りを素早く見回す。道路の向こう側を三人組の女の子が歩いているのが見える。夕陽を背に歩いているため、顔までは判別できない。彼女たちが言ったのだろうか?
何が起こっているのかよく分からない。心臓がドクドクと高鳴り、頭の中がパニックになりそうになる。
そうしている内に、「大学全体が自分の悪口を言っている」との考えが頭に閃いた。自分が授業や礼拝に出ていないことも、デモに参加しなかったことも、皆に全部知られているのではないか。大学全体がそれを非難しているのではないか、と感じる。
踵を返し、来た道を戻り始める。早足はすぐに駆け足へと変わった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
はあ、はあ、はあ、はあ……。
息を切らして走りながら、もうこの大学にはいられない、と思った。

「いらっしゃいませー」
カウンターの中にはいつも見かける伏し目がちの女性と新しくバイトを始めた青年が立っていた。民喜は店員から身を隠すようにお弁当コーナーへ向かった。傷んでしまった野菜の他に、部屋にはもうほとんど食べる物がなかった。
目の前に並んでいる弁当の中で、食べたいと思うものは一つもない。胃の中が重苦しく、まったく食欲も湧いてこない。
コーナーの前に立って何を買うか決めかねていると、カウンターの方からクスクス……という笑い声が聞こえてきた。カウンターに立つ中年の女性と青年がこっそりこちらを見ながら笑っているのだと思う。
「また来た」
「自炊してない」
ヒソヒソ話が聞こえてくる。血の気の引いた頭に、今度はカーッと血が上ってくる。
なぜ分かったのだろう? 全部バレてる?
何も買わずに急いでコンビニを出る。出口のところで足がもつれ、転びそうになってしまう。何とか体勢を持ち直したが、今のもきっと見られてしまっただろう。耳元に自分を嘲笑う声が押し寄せてくる。
もう駄目だ。このコンビニも、もう使えない……。

アパートに戻ると、ラインの着信音が鳴った。瞬時に中田悠からだな、と思う。手に取って確認してみる。やはりパートリーダーの中田悠からだった。
――いまどこ? 今日の練習来れる?
――ごめん、ちょっと体調よくなくて、今日は休みます。本番までには必ず治します。ごめんなさい
涙を流している絵文字も添える。すぐに既読になり、
――了解です。どうぞお大事に。明日は大丈夫そう?
――ごめん、明日も無理かも。でも、本番までには必ず治します。ホント、ごめんなさい
――了解です。くれぐれもお大事に
笑顔の絵文字が添えられていたが、部員たちはきっと自分のことを怒っているだろう、と思う。
「何でやねん!」
眉をしかめて自分を注意する部長の妙中真美の姿が浮かんでくる。
「何でやねん!」
今回は突込みではなく、本気の怒りで。
いつしか中田悠も普段の穏やかな表情を一変させ、一緒になって怒っている。
「何でやねん!」――
動悸がし、のどがキュッと締め付けられたようになって、苦しい。民喜はスマホを布団の上に力なく放り投げた。
すると、
(弱虫)
(意気地なし)
(無責任)――
大学の構内で聞いた悪口が耳元によみがえってきた。再び頭の中がパニックになりそうになる。思わず大声を出してしまいそうだ。
堪らず民喜はまたスマホを手に取り、将人と駿にラインをした。


4、
――どうしたらいいか分からない。大学でみんな、俺の悪口言ってる
数分後、「既読1」という表示がつき、
――?? どゆこと?
駿からメッセージが届いた。返信しようと文字を打っていると直接電話がかかってきた。
「あ、民喜? いまライン見たけど、どうした?」
駿の声を聞いて、微かにホッとする。
「あ、駿。ごめん、いま大丈夫?」
「いや、全然大丈夫だ。何があった?」
「大学でみんなが俺の悪口言ってる」
「え、悪口? どんな?」
「弱虫とか、無責任とか……授業さぼっている、とか。確かに、最近授業出てない俺も悪いんだけど……。あと、デモに行かなかったとか」
「それを誰が言ってるって?」
「誰かははっきりは分がんねえけど。多分、みんな」
「みんな?」
「んだ、大学全体」
しばらくの沈黙の後、
「民喜の悪口を言ってる奴なんて見たことねえよ……。何かの間違いじゃねえか?」
低い声で駿は呟いた。
「いや、確かに聞こえた」
駿が黙っているので、
「あと、コンビニでも言ってた」
と続ける。
「コンビニ?」
「んだ。今日の夕方、コンビニに寄ったんだけども……。したっけ、カウンターで店員がヒソヒソ、俺の悪口言ってた」
「何て?」
「また来た、とか。自炊してねえ、とか」
駿は「うーん」と唸った後、
「……民喜、最近、眠れてる?」
唐突のように別の話題を切り出した。民喜はキョトンとして、
「え? いや、あんまし」
と答えた。
「そっか。結構疲れてるんじゃねえか?」
「うん、そうかも」
沈黙が続く。
「あのさ、民喜、ちょっと言いづらいんだけども……。ちょっと病院さ行ってみたらどうだべ」
「病院? 何の?」
「うーん、心療内科の。いや、あんまり眠れねえって言うから。ちょっと医者に相談してみたらいいかもしんねえ。それにいま、精神的にも少し不安定になってるんじゃねえか」
「心療内科……」
心療内科に行くなんて、今まで考えたこともなかった。駿の提案に戸惑いつつも、
「うーん、分かった。考えてみる」
と返事をする。駿の言うことだから、何か大切な意味があるのかもしれない。
「もしくは、大学の中に学生がカウンセリング受けられるところ、ねえか? 多分あるはずだけど」
「あるかも。了解、調べてみる」

駿との電話を終えて30分ほど経ったとき、将人からも電話がかかってきた。
「民喜、駿からも電話で聞いたけど。あんま調子よくないって?」
「うん、そうみたい」
将人の声も聴くことができて、民喜はホッとした。
「民喜、来週の土日に、駿とそっち行くから」
「えっ、マジで?」
「ああ、ちょっと心配だからな。顔見に行くわ」
「えー、そんな。すまねえ、福島から東京まで、わざわざ……」
「何も。気にするな。ちょうど俺も駿も、来週の土日予定なかったし」
机の上のカレンダーを確認する。来週の土日というと、10月17日と18日だ。
「サンキュー。将人と駿が来てくれるなら、心強いわ」
「朝から俺の車で向かうから。多分、昼前には着くと思う。近くなったらまた連絡する」
「分かった」
「民喜、だから元気でいろよ。無理すんな」
「うん、マジでありがとう」
「何かあったら、いつでも連絡しろ」
「分かった、ありがとう」
電話を切った民喜は改めてカレンダーを見つめた。
駿と将人が来てくれる――。
思いがけないことだったが、おかげで動揺していた心が幾分落ち着いてきたように感じた。真っ暗だった胸の内に微かにあかりがともったような心地になる。
と同時に、いまの自分はそんなに調子が良くないのだろうか、と思う。駿は自分に心療内科に行くことを勧めてくれた。心療内科って、心の病気になったら行くところじゃなかったっけ? 心療内科に行く必要があるほど、いまの自分は大丈夫じゃなくなってしまっているのだろうか?
ふと胸の内に明日香の言葉がよみがえってきた。
「民喜君も……体調、大丈夫?」――


5、
何をやってる、早く起きろ!
頭の中でもう一人の自分が叫び続けている。でもどうしたことか、体が言うことをきかない。
最終練習が始まる10時半が近づいてきていた。今日は10時半から西棟で最後の調整をして、午後から定期演奏会を行うホールへと向かう予定だった。もう自分以外の部員は皆、教室に集まって練習の準備をしているだろう。
何をやってる、早く起きろ!
悲壮な声でもう一人の自分が叫ぶ。が、布団から起き上がる気力が湧いてこない。

昨晩は夜の1時前には横になった。度数9パーセントの酎ハイを2本飲んで……。けれども嫌な予感がしていた通り、ほとんど一睡もできなかった。直前に迫っている演奏会の本番のことを考えれば考えるほど、目はますます冴えていった。缶酎ハイの影響か時折頭がズキズキと痛み、軽く吐き気も感じた。それでも我慢して寝返りを繰り返しながら夜明けまで目を瞑り続けた。
アラームが鳴った朝の9時には、民喜はすでに疲れ切っていた。何とかして起き上がろうとするのだが、体が言うことをきかない。まるで体を起き上がらせるための神経が何者かによってプツッと切断されてしまったかのように、体に力が入らなかった。早く起きなければ、と焦りを感じつつ、民喜はそのまま布団の上に死人のように横たわり続けていた。
目を開け、視線だけ動かして傍らの時計を見遣る。
練習開始の10時半。
民喜は泣き出したい気持ちになった。
開始時間を15分ほど過ぎた時、ラインの着信音が鳴った。ギクリとする。きっと中田悠からの電話だろうと思う。
息を潜めて、着信音が途切れるのを待つ。ずいぶんと長く鳴り続けたように感じた後、ようやく音は途切れた。すぐ後に今度はラインメッセージの短い着信音が鳴った。またギクッとする。
中田悠やテナーパートの皆にどう説明すればよいのか分からなかった。
しばらくして、再び電話の着信音が鳴り始めた。やはり手に取らずにそのままにする。いまの状況を部員の皆にどう説明したらいいのだろう……?
一つだけ民喜が理解していたのは、もう自分には定演に出る力は一切残っていない、ということだった。

本番まであと1時間という頃、民喜は布団から手を伸ばしてスマホを手に取った。連絡だけはしておかなくてはならない。せめて、「行けない」という連絡だけは……。
スマホのラインには中田悠からだけではなく、同じテナーパートの榎本からも、そして部長の妙中真美からも複数の不在着信とメッセージが届いていた。 
画面を眺めながら、改めて頭から血の気が引いてゆく。
横になったまま、民喜はいまあるすべての力を振り絞って中田への返信を入力した。
――どうしても行けない事情ができてしまって、定演を欠席します。本当にごめんなさい
送信ボタンを押す。全身から力が抜けて行く。スマホが手から布団の上にすべり落ちる。目を瞑り、
(もう終わった――)
と思う。
 
どこかから聴こえるラインの着信音に民喜は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。部屋の中はすでに真っ暗だった。
枕元の時計を見る。夕方の6時前。
定演はもうすっかり終わってしまっている時間だった。床に転がっているスマホを民喜は恐る恐る手に取った。暗闇の中、青白く発光する画面には、
永井明日香
と表示されていた。
ハッとする。電話に出よう――と思った瞬間、体が固まってしまった。今日のことを彼女にどのように説明していいのか分からなかった。
明日香さんの声が聞きたいと思う。でも、いまは電話に出ることはできない……。
民喜はゆっくりと上半身を起こした。ずっと横になっていたせいか、背中と腰にビリッと電流が流れたような鈍い痛みが走った。
震える手でスマホを握りしめながら、電話の着信音が途切れるのを待つ。プロフィール写真のトラ模様の猫がジッとこちらを見つめている。
しばらくして着信は途切れた。そのまま放心したようにスマホの画面を眺めていると、明日香からメッセージが届いた。
――定演、無事に終わりました。民喜君、大丈夫ですか。心配しています
ラインの文面を見て、思わず目に涙が滲んできた。少なくとも明日香さんは自分のことを怒っていないのだ、ということが分かった。しかも、明日香さんはこんな自分のことを心配してくれている……。
――メッセージありがとうございます。この度は休んでしまい、本当にごめんなさい
とだけ返信をする。するとすぐに既読になり、彼女からメッセージが届いた。
――返信ありがとうございます。お返事をもらえて、ホッとしました。お休みしたことは、全然気にしないでください。それより、体調は大丈夫ですか?
民喜は眼鏡を外して、目に滲む涙をTシャツでぬぐった。
――体調、何とか大丈夫です。心配かけてごめんなさい。ありがとう
そう返事をしつつ、本当はもう大丈夫ではないことは自分でも分かっていた。


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第1章まとめはこちら(↓)をご覧ください。

第一部、第二部はこちら(↓)。



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