2020年夏号・「ナザレンの講壇から」ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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「私たちは弟子造りをしているのでしょうか?」
平原セニー(タイ宣教)

 マタイ書の最後の章、28章にはイエスの生涯における二つの重要な話が記されています。一つは1節から15節に書かれている“イエスの復活 ”です。もう一つは主が召天する前に言い残した18節から20節の“大宣教命令 ”です。この二つの出来事を16節と17節が結び付けて行きます。世界宣教は主の復活無くしては始まらないと言う事を示しているのでしょう。
 まず、主の復活から見てみましょう。28:10にはこのように書かれています、“イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。” 16節に、イエスが11人の弟子たちに示した様に、弟子たちが主の命に従いガリラヤに行って主の命じられた山に登った、と書かれています。マタイ書には復活の主とのガリラヤでの再会が 3度述べられています。(26:32、28:7、28:10)ガリラヤはエルサレムとは違い弟子たちの故郷であり、家族や友人、イエスを信じた人たちが大勢います。そして弟子たちが向かったガリラヤの山とは、喧騒な町から離れた絵のように美しく、落ち着いた寂然たる所であったことは容易に想像できます。その様な場所で復活の主は弟子たちと会うことを望んでおられたのです。
 17節には面白いことが書かれています。命じられた山に行き主に出会った弟子たちは、「イエスに会って礼拝した。しかし、疑う者もいた。」という点です。ガリラヤの山で主にお会いし、すぐ礼拝した弟子達でしたが、弟子たちの中には「疑う者もいた」、というのです。この部分は色々な解釈がなされていますが、ウィリアム・ヘンドリクセンは次のように言っています。“ガラリヤの山に主が現れた時は弟子達との距離がかなり離れていたので、何人かの弟子にはそれがイエスであるかどうか確信が持てなかった。”しかし、18節にあるように、“イエスが近づいてきて言葉をかけた時に、はっきりと主の顔も姿も見え、さらに声も聴くことが出来たので、復活の主であることを確信できたのではないだろうか。”そしてこれが “礼拝した ”と “疑う者もいた ”の 17節の状況であろうと私も思います。
 そして18節でイエスは「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」と語っています。これはイエスが父なる神と同等に天においても地においても権威と力を有していることを伝えています。それゆえにイエスは続けて明確に次のように言い残したのです。19節、「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20節、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」19節と 20節は一つの文で、原文のギリシャ語では、19節の“弟子として”と言う単語がこの文の唯一の動詞です。他の、「行って」「バプテスマを施し」、「教えよ」はみな分詞です。これにそって訳すと、“出て行ってすべての国民に主にある救いの福音を宣べ、回心に導き洗礼を授け、主の命じた事をまもるよう教えて、弟子を造っていきなさい。”の様になります。
 そして、このイエスが言い残した大宣教命令の中心となる“弟子を造る ”とはどのような意味なのでしょうか?弟子の文字通りの意味は“学ぶ者 ”と言う意味ですが、弟子とは師に従っていく者と言うことを含んでいます。弟子となる者の最終目標は師に似るものになることです。イエスの弟子となることはイエスに似るものとなるということです。
 主イエス・キリストが最後に残した命令、「弟子を造りなさい」と言う命令は誰に託されたものでしょう。使徒や預言者に対してだけではなく、伝道者、牧師、教師、そしてすべての信仰を持つ者に託されたものです。そして、この弟子造りの第一歩、それは福音を伝えることでしょう。福音を伝えると言っても、キリストの誕生、死、復活を通しての罪の赦し、永遠の命を伝えると言うことだけではなく、信仰を持った者の変えられた姿や新たにされた人生を示していくことを含みます。信仰を持った者は未信者の方をキリストの救いに導き、そして救いを受けた人が成長して弟子造りが出来るように導いていくのです。そして弟子造りをしていくことで自らも信仰が深まり霊的に成長し、エペソ4:15にあるように、キリスト者は全きものに近づいて行きます。
 クリスチャンとして主の大宣教命令を遂行していくなかで、まず私たちの身近な人について考えてみましょう、家族、友人、隣人、職場の同僚たち、あなたの周りの人々はあなたがクリスチャンであることを知っていますか?キリストについて話したことがありますか?また、すでにキリストを救い主として受け入れた方、そして教会に来ている方、あなたはこれらの信仰をすでに持った方々が霊的に成長するように祈ったり教え導いたりしていますか?悲しいことですが多くのクリスチャンが救いを受け入れしばらくすると、霊的な成長が止まってしまっているようです。多くの人が他の人に信仰の証をしたり、福音を伝えることが出来ずにいるのではないでしょうか。もしクリスチャンの信仰が深まらず成長してないとすればどんなに悲しいことでしょう。キリストの大宣教命令は「行って弟子を造りなさい。」と言う事です。20節に書かれているように、イエスは「世の終わりまで私たちと一緒にいる。」と約束してくださっています。キリストは私たちを愛してくださり、私たちのために身を捧げて下さいました。その主を私たちは愛すべきではないでしょうか。私たちの主に対する愛は私たちの従順さで示されます。私たちの全てを主に捧げ、キリストの命である「出て行って全ての国民を弟子としなさい」に従っていきませんか。
 最後に質問をさせて下さい。私たちはキリストの弟子を造っているのでしょうか?あなたはキリストの弟子を造っている弟子でしょうか?
 お祈りいたします。

※ 聖書引照は,口語訳(旧約 1955年改訳・新約1954年改訳)を使用

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