2021年春号・6月20日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■説教者のためのテキスト研究
「誰もが恵みによって救われる」  使徒15:6−11
伝えるポイント:ユダヤ人だけでなく異邦人も主イエスの恵みによって救われることが使徒会議で確認された。

【エルサレム会議】(15:1-21)
 15章の前半はエルサレム会議の記事である。この会議は、初代教会にとって大変重要な意味を持っている。キリスト教がユダヤ教の一派にとどまるのか、それとも全世界のための普遍的な救いの使信となるのかが問われるものであった。異邦人に宣教された福音は、旧約の枠を越え、律法の規定「行いによる義」から離れ、霊的に自由をもたらす「信仰による義」となるのか?それとも異邦人も、割礼を初めとする律法の「行い」に拘束されなければならず、霊的自由は制限されてしまうのか?それが討議された。

《会議の発端》(1-5)
 アンティオキア教会にエルサレムからユダヤ主義キリスト者が来た。彼らは、モーセの律法に従って「割礼」を受けなければ救われないと説いたのである。これはパウロたちアンティオキア教会(異邦人中心の教会)の福音理解と真っ向から対立した。論争が起こったことも考えると、ユダヤ主義者の同調者もいたのかもしれない。パウロとしても、このユダヤ主義者に対する決着を付けておきたかったに違いない。パウロたちは、問題の重要性を考えて、エルサレムの使徒たちや長老たちに協議を求めに、エルサレムへと向かう。
 途中、フェニキヤとサマリアを通過し、各地の兄弟たちに、異邦人の改宗という目覚ましい神のわざを報告した。
エルサレムでは教会と使徒たちと長老たちの歓迎を受け、異邦人伝道の報告がされた。だがパリサイ派出身のキリスト者から、異議の申し立てが起こる。
《ペトロ、意見を述べる》(6-11)
 ここに至って正式に会議が招集される。救いのために割礼やモーセ律法の遵守が必要か否か?激しい議論があった。ユダヤ主義キリスト者も、異邦人への伝道に関しては反対ではない。だが彼らはどこまでも旧約に忠実なキリスト者であり、異邦人にも当然のことととして律法を守ることを求めたのである。
 そこでペトロが自分の体験・証をもとに意見を述べる。ここで彼は、コルネリオを例に挙げる。神が異邦人にも聖霊を与えたことは、割礼なしに彼らを救おうという神の意思の現れである。そこには何の差別もない。ペトロが異邦人に福音を語ったのは、神の意思であることを思い起させている。もしその異邦人に割礼を強いるなら、それは神を試みることである。主イエスの恵みによって救われたのに、先祖も自分たちも負い切れなかったくびき(参照:ガラ3、4章)を示すのは、神を試すこととなる。
《ヤコブの調停案》(12‐21)
 ペトロの証を聞いて、全会衆は沈黙した。続いてバルナバとパウロが証言する。パウロらしい弁証は一切行われず、異邦人伝道に伴ったしるしと不思議なわざの報告のみである。聖書解釈は論争の対象になるが、証は厳然とした事実である。神の為せる業の前に、私たちは沈黙するしかない。
 最後にヤコブが立ち上がり、調停案を示す。この時彼がエルサレム教会の責任者であったことがうかがわれる。
 ヤコブはシメオン(=ペトロ)の証を援護しつつ、論証のためにアモス9:11‐12を引用する。それはダビデの幕屋再建(イスラエルの再興を意味する)の箇所である。異邦人が主の民に加えられることは、大昔から一貫して変らぬ神の御旨である。だから割礼を強いることで、異邦人を悩ませてはならない。
 つぎにヤコブは、異邦人クリスチャンに対し、4つの禁止事項を挙げる。「偶像に供えた食物」「不品行」「絞め殺した物」「血」である。この事項は、レビ記17~18章に記されている「在留異国人」に求められた聖潔の定めに該当する。この定めは、これまでにもユダヤ教に回心した人々に、最小限の律法の要求として課せられていたものと考えられる。
 しかし、この会議においては、これらを救いや教会加入の条件にしたのではない。性質の異なる2つの教会が、福音の一致した原則の中で共に生きるためには、当然負うべき愛の重荷があったのである。

■中高科
「誰もが恵みによって救われる」  使徒15:6−11
伝えるポイント:ユダヤ人だけでなく異邦人も主イエスの恵みによって救われることが使徒会議で確認された。

準備
 宣教とは、神の愛と恵みを知らせる働きです。そして救いは私たちの行いではない。神の恵みによって与えられたこと感謝すると共に、この恵みを伝えるものとなりたい。

説教
 使徒の働きのテーマ、それは宣教です。宣教とは神様ご自身の働きであると共に、神の召しに預かった私たち、すなわち「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っている」ロマ8:28にもあるように、神様が神様の召を握る者たちと共に働く業、神と共に行う共同作業、それが宣教であります。先週13章では、宣教の働きが大きく前進する出来事、パウロとナルナバによる伝道旅行がスタートしました。これは、人から出た計画ではなく、聖霊の導き、促しにより、自分たちの力でではなく、教会の祈りによって始められたものであることを学びました。確かに何かを行う時、計画を綿密に立てること、それは間違いなく大切なことであります。しかし、それ以上に、もっと大切なことは聖霊によって導かれるということです。それと同時に祈りです。大事なことこそ、祈りをもって進める必要があることを学びました。そして、パウロとバルナバはアンテオケを出発し、約1年間沢山の地域を訪ね、そこで多くの異邦人が福音を受け入れ、救われていったのです。聖霊の促しによって始まった働きは、常に神様の恵みの中で、多くの実を結んでいったのです。
 しかし、帰って来ると、当時キリスト教の中心であったエルサレムでは別のも問題が起こっていたのです。確かに、異邦人が救われることは喜びであり、異邦人を認める。しかし、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきである」と先に救われていたユダヤ人クリスチャン達の間で、このような意見が出てきたのです。ユダヤ人達にとって、割礼こそ、自分たちはアブラハムの子孫であり、神の民であることの印です。そして、律法は神の民が守るべき基準であり、律法守ることは神様に従うことの現れでした。それだけに、新しく救われてきた人たちのグループが割礼も律法も行なっていないのを見て、彼らにもそれらを行うことを要求し始めたのです。
 しかし、ここで大事なことは、救われることと、律法を行うこととは一緒ではありません。救いは恵みであるのです。事実、異邦人クリスチャン達は律法を行なったからではなく、福音の言葉を信じることによって救われました。そして、ユダヤ人クリスチャンと同じように、異邦人にも聖霊が与えられたのが、何よりも証拠です。救いは私たちの行いではなく、イエス様が私たちが行いきれない、律法を全て全うしてくださり、私たちの負うべき罪の裁きを、十字架の上で全て負ってくださったのです。そのことを信ずる全ての者を、神様はキリストにあって「義」と認めてくださった。罪のないものと認めてくださったのです。これはただただ恵みであります。
 それはなぜか?神様が全ての者の救いを願っておられるからです。愛するものが裁きにあうことを神様は願っておられないからです。今日も、この恵みが私たちに与えられていると同時に、世界中の人々に届けられることを神様は願っています。


■小学科
「誰もが恵みによって救われる」  使徒15:6−11
伝えるポイント:ユダヤ人だけでなく異邦人も主イエスの恵みによって救われることが使徒会議で確認された。

準備
 どのように生きることが人間の幸いとなるのでしょうか。幸いとは一体何でしょうか。私たちはときどき真の幸いを見失い、目先の欲望に押し流されてしまう弱い存在です。実に、神の民にとっての真の幸いとは、神さまに信頼し、神の民であり続けることでした。かつてイスラエルの民を選び出された神さまは、神の民 であり続けるための祝福として律法を与えられたのです。詩編 1:1-3 を見る限り、主の教えであるところの律法とは、人に繁栄をもたらすほどの祝福です。
 しかし、時を経て、人々にとって律法は人を豊かにするためのものではなくなり、人を縛る規定・重荷(ルカ 11:46) と成り下がりました。これでは、人を救うことなどあり得ないわけです。
 神さまの思いは、人々を律法でがんじがらめにすることではありません。独り子イエスをこの世に与え、人間の罪を背負わせて十字架にかけ、復活させ...これらのことを通して示された「愛」にあります。この主の恵みにて救いがもたらされ、異邦人を含む新しいイスラエルへと神の民は拡大していくのです。
 イエスを主と呼び、一度は信じたはずのユダヤ人たちにとって、しかし律法によらずにただ主の恵みに生きることは大きな問題でした。これまでの生き方から新しい生き方へと変換が求められるからです。エルサレムの使徒会議では、古いユダヤ的生き方が問われたといっても過言ではないでありましょう。

説教例
 イエスさまが天に昇られてから、教会には聖霊が与えられて、教会の歴史が始まりました。教会には「迫害を受ける」というような多くの困難もありましたが、 それでもイエスさまの教えがたくさんの人々を教会へと導いたのです。最初はユダヤ人、そしてやがては外国に住んでいるユダヤ人、そして今や、イエスさまのことはもちろん神さまのことすら知らなかった外国人にまで、イエスさまの教えが拡がっていきます。それは、誰より神さまが望んだことでした。
 けれども、大きな問題があったのです。昔から神さまを信じていたユダヤ人は、割礼というしるしを体に刻んでおり、また律法という約束を守っていたのです。 子どもの頃からこれらを大切に守り行って、大人になった人たちです。だからこそ、外国の人たちもそれらを 大切にすることが必要だと主張しました。けれども、昔から熱心に神さまを信じていて、そのためにイエス さまを信じる人たちを迫害したことすらあったパウロは、イエスさまを通して本当の神さまの愛と恵みを知ったので、この意見に断固反対します。12 弟子の一人で あったペトロも、外国の人が救われるのは律法を守るという行いではなく、ただイエスさまの恵みによるのだと語りました。こうして、エルサレムで開かれた使徒会議は、外国人でイエスさまを信じる人には、ユダヤ人の守り行ってきた律法や割礼を押し付けないということが決定したのです。
 神さまを心から信じるとき、私たちも生き方を変えなければならないような問題にぶつかるものです。それは、この世界の価値観とは違う生き方への転換です。 “神さまを信じていても、自分の考えで生きていきたい” と、もがきたくなることがあるかもしれません。そのような中にあると、“自分の経験や知識の方が正しい”、“自分と違う考えの人の話しなどは聞きたくない”と、傲慢 な気持ちになることでしょう。でも、どうか思い出してください。イエスさまを信じる教会は、自分たちの古い生き方を捨てて、神さまの方に向きを正したのです。 私たちも聖書の言葉を聞いて、神さまの方に向きを正す、そのような神さまの子どもとされましょう。

■小学科ワーク

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