2020年夏号・成人科9月13日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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マナをもって養われる神  民数記 11:1-9

◯はじめに
 シナイから約束の地に向かって、イスラエルの民は十戒をいただき、契約の箱と共に、幕屋を担いで再出発したのです。エジプトを出発した時は、気のみ気のままで、民は歩んだのです。しかしシナイ山からの出発は、各部族が整然と隊列を整えて、ユダ族を先頭に秩序をもって、雲と火の柱に導かれながら、出発したのです (民数10:13-14参照)。彼らは雲の柱に導かれて、歩み始めましたが、三日の長丁場となりました。モーセは、旅の無事を願い、神に祈り叫んで歩みました (民数10:33-36参照)。
1、民の心
 奴隷の地からの奇跡的救出も、三日の旅路で、民の心は打ち砕かれたのです。民はモーセにつぶやきはじめたのです。たしかに荒野の旅は飢えと渇きと激しい疲労が襲って来ました。しかし見るべきものは目の前の風景ではなく、自分たちを祝福の地へ導かれる神ご自身なのです。神様がなされたここまでの、数々の奇跡的出来事を通して、神様を信頼して歩み続けるべきなのです。けれども民の中に混じっていた異邦の人達が、騒ぎだし不平をあおり、エジプトにいた時の食べものを懐かしみ、求め始めました。神なき民は今の苦しみだけを憂い、不平と不満に変えてしまうのです。エジプトの苦役と奴隷の鞭がどれ程苦しく、その民の叫びが神にまで届いたのに、民は目の前の欲望だけを満たすことを求めたのです。大きな奇跡と、恵みと、忘れることはできない程の感動と感激を受けたはずです。しかし、不平は不信を抱かせ、神の守りと真実を見えなくさせてしまったのです。彼らは大声で泣いて「誰か肉を食べさせてくれないものか。…私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(4-6節)と叫んだのです。やがて不平は民全体に広がりみんなが騒ぎ始めました。神様は民の忘恩の心に怒りを燃やされ、宿営の端を燃やされたのです。それによって民への怒りを表されたのです。
2、マナ不思議な食べ物
 民が紅海を渡り荒野の旅をはじめた時から、マナは民たちに降ってきました。荒野の旅は厳しくあったとしても、神様の守りと助けがなければ、一日たりとも過ごすことができなかったはずです。厳しくても、民の必要の全ては神のもとから来ていました。飲食は荒野では手に入らず、日ごとの水を得ることができるよう、主は彼らを水辺へと導かれたのです。大勢の民にとっての日ごとの糧としてマナが降ってきたのです。これらの出来事は毎日与えられた恵みの出来事でした。忘恩の民はこんな大きな奇跡も、感謝とは感じなく、毎日毎日同じマナに飽きを感じてしまったのです。「私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(6節)。同じ食べ物、マナしか降って来ないこの事実に、飽き飽きしてしまい、全てが不満へと変わってしまったのです。口語訳では、「われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。と記されています。何という高慢で、感謝のない民でしょう。死んでしまっても良いような状況に置かれながらも、救われ、渇ききってしまうような中で、守られていた彼ら。好きなものが食べられない環境にはあっても、生きるために必要なものはすべて備えられてきたのです。これはまさに奇跡以外にあり得ない出来事なのです。健康も守られ、敵からの保護…、彼らにはその恵みが目に見えなくなっていたのです。彼らの目に見えた物は、毎日降ってくるマナだけだったのです。「…マナばかりで、何もない」と彼らは不平を漏らしましたが、このマナこそが、神が作られたパンだったのです。栄養価の高い、調理をするととてもおいしい食べ物だったのです。このパンこそは神様が民を見捨てておられないことの象徴的な物で、この一つだけでも神の恵みが注がれている事の恵みの印なのです。これを見て、不平を叫ぶ民の姿に、私たちも感謝を忘れた民にならないようにしたいものです。私たちに与えられたマナを見てよろこび、感謝をしたいものです。

設 問 ここに人間の本質的な罪が示されています。あなたはそれを何と思いますか。

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