2020年夏号・成人科9月6日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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主の命によって旅立つ  民数記 9:15-23

◯はじめに
 アブラハムが神様と交わした契約は、「…あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める…」(創世記 12:2)。これが契約の成果であり、そのための約束は「…わたしが示す地に行きなさい…」(創世記 12:1)だったのです。神様はアブラハムの子孫が大いなる民となることを計画されたのです。そのために必要であったことは、常に神と共に歩み、神の恵みに生き、神様の導きに従うことでした。そのために神と共に生きる生活を経験する必要があったのです。荒野の40年の生活は、信仰生活を示すもので、どのような苦しみの中に置かれることがあっても、どのような闇の中を通過する時も、神は共におられ、必要を満たし、私たちを決してお忘れにならない方であることを知ることでした。イスラエルは荒野の40年を通して、それを学んだのです。
1、荒野の40年
 広漠とした砂漠を、全く道なき荒野を、200万人程の大群のイスラエルの民は、進まなければならなりませんでした。幼い子どもを連れ、高齢の人を道連れに、幾度もさすらいながら進んだのです。どの方向に進むべきか、いつまで歩むのかも分からない旅でした。指導者モーセですら初めての世界、道案内もなくただあるのは不安だけだったのです。彼らの手には食物もなく、水もない、ただ神様だけを信じて進んで行くしかない現実だけがあったのです。この旅路には行程表もなく、宿泊地も知らない旅路でした。ただ神に導かれ支配されることが、どんな結末を迎えるかを、経験するためのものだったのです。この旅路は、21世紀を歩む現代のクリスチャン生活にも当てはまるものです。私たちの生活は決して未来が見え、計画通り進んで行くものではないのです。けれども神様はイスラエルにされたように、いつも私たちと共におり、私たちを祝福し、約束の地へと、必ず導かれるのです。イスラエルの民は奴隷の地から解放された時から、不平と不満をもって神につぶやき、神の愛の御手を汚そうとしました。けれども神はアブラハムとの契約ゆえに導かれ、民はシナイ山で十戒をいただき、幕屋を造り、隊列をそろえて荒野へと進んで行ったのです。
2、幕屋の設営
 神様はシナイ山で、民に、神の民としての十戒をお与えになり、宝の民、聖なる民となることを約束されたのです。そのために彼らに、常に共におられることを忘れないために、幕屋を造らせたのです。幕屋はイエスキリストのひな形であり、ここに神の赦し、贖い、救いの恵みが現わされ、祭儀として執り行われていたのです。すなわち幕屋はキリストを示しているのです。キリストにはいつも神様の臨在が現わされているのです。「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。」(15-16節)。幕屋には神が共にいることが、雲と火によって証しされ、民たちは幕屋と共に旅をしたのです。キリストと共にある時、臨在は彼らと共にあり、雲が天幕から上る時、民たちは旅立ちました。また雲がとどまるその場所で宿営しました。長い間、雲がとどまる時には、旅立たなかったのです。なぜなら主と共に歩むことこそが、神の民の責任であり、それに対して神は約束を果たして下さるからです。これは今も私たちに対するメッセージでもあるのです。主の臨在の中を歩む時、主は私たちに神の民としての恵みと祝福とを与えてくださるのです。

設 問  このところから、現代を歩む私たちに対するメッセージは何でしょうか。 

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