2021年冬号・2月28日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
互いに足を洗い合いなさい ―― ヨハネ 13:1-15
伝えるポイント;イエスは御自分の時が来たことを悟り、自ら弟子たちの足を洗って、互いに足を洗い合うよう模範を示された。

ポイント1、
 イエスは互いに足を洗い合うよう模範を示された。模範を示すならば、何人かの足を洗って見せられれば十分である。しかしイエスは十二人の弟子全員の足を洗おうとされる。イエスは自分を裏切るイスカリオテのユダの足をも洗われた。しかも精神的な余裕たっぷりに洗われたのではない。課題箇所に続く21節には、イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」とある。イエスは心騒がせておられる。平安の無い状態でユダの足を洗っておられる。私たちは誰かと会話するにしても、自分をよく理解してくれる人に話すのは気持ちが良いことである。しかし、自分に敵対し、自分を非難中傷する人間に話すのは難しい。わかってくれないから。どうしても理解してくれない人に話すことは苦痛を伴う。しかし、イエスは自分を非難し、決してわかってくれないパリサイ人にも話し続けられた。これが相手の足を洗うということである。(注1)

ポイント2、
 シモン・ペテロは自分の番が来たときに言った。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか?」ペテロは自分の謙遜さを示すつもりで続けて言った。「わたしの足など、決して洗わないでください。」イエスはそんなペテロに対し「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。日本では「足を洗う」といえば「悪いことをやめる」、「立ち直る」といった意味の慣用句である。たとえば「かつては泥棒だったが、すっかり足を洗った」というふうに使う。イエスは足の泥や汚れを洗われるだけでなく、私たちの犯した罪、汚れた心も洗ってくださる。それは洗礼による新たな生まれ変わり、そしてイエスの十字架の死による罪の購いを暗示している。もし自分には、このイエスによる聖めが必要無いと考えるならば、イエスとは何の関係も無くなる。もし私たちが自分の決断や、自分の努力で罪に打ち勝ち、罪の束縛から文字通り自分だけの力で足を洗うことができると考えるならば、神の子が人間としてこの世に生まれ、しかも十字架について死んでくださる必要は無かったということになる。

ポイント3、
 するとシモン・ペテロはイエスに言った。「主よ、では、足だけでなく、どうぞ手も頭も」。やはりイエスの愛を「そのまま」受け入れずにいろいろ注文をつけている。愛を受け入れるとは、足りないものを要求しまくることではないのに。そのまま感謝することなのに。

(注1)かつて榎本康郎先生の後を継いでアシュラム運動で活躍された田中恒夫先生(故人)は、イエスの愛を「あきらめない愛」と表現された。ひとつ愛すれば十分喜んでくれる人もあれば、百愛してもまだわからない人もいる。しかし、イエス様は決してあきらめないで愛しとおされる、と。(アシュラム誌より)

■ 中高科
互いに足を洗い合いなさい ―――― ヨハネ 13:1-15
伝えるポイント;イエスは御自分の時が来たことを悟り、自ら弟子たちの足を洗って、互いに足を洗い合うよう模範を示された。

準 備
 キリストの時代の履物はサンダルのようなものだったので、外を出歩くと足は土埃で汚れた。僕のいる家では入り口の脇に水桶が置いてあって、主人とその家族が帰って来た時や、来客があった時には僕がそれらの人たちの足を洗った。
 イエスが弟子たちの足を洗われたのは、「過越祭の前」であった。「過越祭」は、奴隷であったイスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念し、また感謝を忘れないために行っていた祭りで、子羊の血による贖いがその中心にある。13:4の「上着を脱ぎ」という語は、10:11では、「羊のために命を捨てる」と訳されている。イエスは十字架で死なれる時が近づいたことを知られて弟子たちの足を洗われたのである。
 洗足の意図は、イエスご自身が受難の僕となられること、また人の罪を洗い流すために死なれること、そして自分を裏切るユダの足を洗われて愛されたように、互いに愛し合うことを示すためであった。
 ペテロはイエスの真意を悟らず、「手も足も洗って下さい」と申し出たが、イエスは、「体を洗った者は全身が清い」と言われた。それは、「イエスを救い主と信じた者は、全生涯が清くされる恵みに導かれている」という意味である。
 イエスは、「謙遜になること」、「互いに仕え合うこと」、「互いに愛し合うこと」を洗足によって教えておられる。

説教例
 イエスさまの時代の履物はサンダルでした。道路は今みたいに舗装されていませんので、外を出歩くと足は土埃で汚れてしまいました。ですから、僕を抱えている家では入り口の脇に水桶が置いてあって、主人や主人の家族が帰って来た時や、お客様が来られた時などは僕がそれらの人たちの足を洗ったのです。足を洗うのは僕の役目だったのです。汚れた人の足を洗わされる僕はどんな気持ちがしたでしょう。きっといい気持ちはしなかったでしょうね。「偉そうにしないで、自分の足くらい自分で洗ったらどうだ」と言いたくなったかも知れませんね。
 イエスさまは弟子たちと食事をしている時に、ご自分が十字架にかかられる時が近づいたことを知られて、弟子たちの足を洗い始めたのです。弟子たちは大変驚きました。なぜなら、イエスさまが僕のように人の足を洗われたからでした。なぜイエスさまはそのようになさったのでしょうか。それは、イエスさまが僕のようになって神と人に仕えることを示すためでした。僕は主人の言いつけどおりにしなければなりませんでした。イエスさまはかみさまの僕になって従順に十字架にまで進まれるお方であることを示されたのです。また、水で洗うと汚れた足がきれいになるように、イエスさまの十字架の血が人間の汚れた罪を洗い流すことを示されるためでした。そして、この弟子たちの中には、「イエスなんか知らない」とイエスさまのことを否定してしまうペテロや、銀貨30枚でイエスさまのことを売り渡してしまうユダもいたのですが、イエスさまは彼らの足も洗われたのです。それは本当の愛がなければ出来ないことですね。このようにイエスさまが足を洗われたのは、愛の大切さを示すためでした。
 足を洗われたペテロは、始め遠慮していましたが、イエスさまとの関係が無くなってしまうといけないと思い、「足だけでなく、手も頭も洗って下さい」と願いましたが、イエスさまは、「体を洗った者は全身がきよいのです」とお答えになりました。それは、イエスさまを信じた者は罪からきよめられて日々を歩むことが出来る道を備えられていることを言われたのであり、イエスさまを救い主と信じることが何より大切であることを教えられたのです。
 イエスは弟子たちが、僕のように従順で謙遜な者になること、また互いに仕え合う者になること、そして互いに愛し合う者になることを願って足を洗われたのです。そのイエスさまは、「さあ、あなたの足も洗いましょう」と言って下さっていると思いませんか。

■ 小学科
互いに足を洗い合いなさい ―――― ヨハネ 13:1-15
伝えるポイント;イエスは御自分の時が来たことを悟り、自ら弟子たちの足を洗って、互いに足を洗い合うよう模範を示された。

準 備
 13章から19章は、イエスの最後の一日(日没から始まる)を記す。洗足はイエスの十字架による贖いの先取りである。それを基に、相互に愛し合い、仕え合うことが勧められる。

説教例
 仲のいい友達ともう二度と会うことができないかもしれない、そういうとき皆さんならどうしますか? あまり想像したくないかもしれません。残った時間をどうしたら大切に過ごすことができるか…、とても考えさせられます。イエスさまも十字架に架かられる直前、愛する弟子たちとお別れしなければなりませんでした。神様のもとに帰る「そのとき」がもうすぐ来ることを気づかれたイエスさまがされたこと、それが弟子たちの足を洗うことだったのです。
 当時の道は今のように舗装されてなかったので、ほこりや泥で足がよく汚れました。履物も今でいうサンダルです。家に入るとき、特にお客さんの場合、足を洗うもてなしがありました。それは主に召使いや目下の人がする作業です。弟子たちもイエスさまの足を洗ったかもしれません。ところが、今回は様子が違います。先生であり、主であるイエスさまが弟子たちの足を洗われたのです。それも全員の足です。ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いましたが、そこに驚きの大きさが表れています。当時の常識からは「ありえないこと」だったのです。
 本来であれば、弟子たちの足を洗う必要など全くありません。しかし、あえてそうなさったです。そうすることによって、弟子たちを「この上なく愛し抜き」(1節)、「模範を示す」(15節)ためです。これ以上ないくらい最高に彼らを大切にするため、そして見習うべき手本を彼らに教えるために、イエスさまはご自分の方から動かれたのです。
 それは、「他の人々に仕える姿、尽くす姿」でした。自分ができるかぎりの、精一杯のことを相手のことを想って行う――大好きな友達のためならともかく、苦手な人にそうするのは簡単ではありません。好きか嫌いか関係なく、ただ神さまが心から大切に想っておられる人だから、自分もその人のことを心から大事にしよう――それこそイエスさまが弟子たちに伝えようとされた「愛」、「愛する」ということです。イエスさまは「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と弟子たちに言われました。それは「あなたがたは互いに仕え合いなさい、そうすることで互いに愛し合うことができるのだ」ということです。
 そのように皆が仲良く、平和に暮らしていけるなら、本当に素晴らしいことです。そんな私たちでありたいと願います。でもなかなかそうすることができないのが人間です。相手のことより、自分をもっと大切にしたい。「分け与えなさい」と言われても、そうしたくない、自分のものにしたい気持ちもあります。少しは与えることができても、自分の命まで与えよう(相手のために死のう)などと思わないものです。人間はそういう「強さ」を持っていないのです。神さまだけがその「愛」をお持ちです。互いに愛し合うことができない「弱さ」のために、神さまの独り子であるイエスさまは私たちの代わりに命をお与えになりました。皆が神さまの愛に生きることができるようになるために。弟子たちの足を洗われたことは、十字架に向かう大きな愛の一歩として、イエスさまが皆に示してくださったことなのです。

■ 小学科ワーク

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