2021年冬号・3月28日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

ヨハネ18章15~18節 ペトロはイエスの弟子であることを三度否定した

 今回は、教会外でもよく知られているペトロが三度「わたしはイエスの弟子ではない」と言った言葉です。「三」という数は聖書の中では大きな意味を持っています。イエスの復活は「三日目」です。アブラハムがイサクを献げることを命じられて献げるまでの間が「三日間」、預言者ヨナが魚のお腹の中にいたのが「三日間」等々です。ペトロの「三度」という言葉も、「三日間」で表された言葉の様に一つの考え方、或いは神の計画の区切りを伝えている数字ではないかと考えます。そのような立場に立ちますと、ペトロの「三」は明らかに意志をもって「イエスの弟子ではない」と表明したと受け止めます。
果たしてペトロは大祭司の家の庭に入りたかったのでしょうか。ぺトロの心理状態は解(わか)りませんが、教会の状況を表しているように思わされます。何故かと言うと教会は、教会が意図しないままに非福音的な所に、あるいは反キリスト教的な所に立たされることがあります。それだけではありません。教会内でも声の大きな人の意見がまかり通って、声を出せない人や意見を言えない雰囲気が存在することがあります。そのとき声の小さな人は自己防衛のために意見を言わなかったり、思いと違うことを言ったり、声の大きな人の意見を受け入れたりということも少なくないのです。その一人がペトロです。彼は自己防衛のために「私はイエスの弟子です」と言えなかったのです。「三度」ということによって、完全な自己防衛に入って行ったと言わなければならないでしょう。
 しかし心の奥深くではイエスの弟子であることを肯定したい思いもあったと考えられます。ヨハネは18節と25節で「立って火にあたっていた」と書いています。ペトロの周囲にいるのはすべてイエスを十字架につけることを実行した人たち、あるいは賛成した人たちです。その中でペトロは話し相手もなく、どのくらいの時間かは分かりませんがジッと火を見ていました(ルカは時間を示しています。22章58、59節参照)。13章38節において「三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げられていたぺトロが、一度目にイエスの弟子であることを否定した後、黙って火を見ています。その時のペトロの心の中に「言ってしまった」という悔いと、イエスから「三度」と言われたけれども「もう弟子ではないとは言わないぞ」と心に言い聞かせていたのではないでしょうか。しかし二度目「あの男の弟子のひとりではないのか」と問われた時、重ねて「違う」と言ってしまったのです。そしてまたジッと火を見ていなければなりません。心の中は「また言ってしまった」という後悔と「今度は弟子であることを表明するぞ」という思いに満ちていたことでしょう。しかし三度目は、ペトロがイエスと一緒にいた所を見られていたと知った時、決心していた思いが崩れ、また弟子であることを打ち消したことが書かれています。
 「自分を捨ててイエスの弟子になる」ことがどれほどに難しいことかを知らされます。イエスの弟子であることを否定するペトロの中に私を見させられています。これほどに弱くだらしないのにもかかわらず、イエスは弟子としてペトロを受け入れ、私を受け入れてくださるお方なのです。そのことが十字架の必要性をはっきりと語っているのです。
【設問】「イエスの弟子か」と問われて「違う」と言った時のペトロの苦しみを想って話し合ってみてください。
参考賛美「弱き者よ われにすべて」(新聖歌232)

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?