2021年冬号・2月28日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ11章28~44節 イエスはラザロの復活を通して神の栄光を現した

 本日の課題の中に「ラザロの復活」という言葉があります。しかし「ラザロの生き返り」のほうが良いかと思います。また本日指定されている聖書箇所だけではなく、11章全体を通しての大きな課題は、ラザロの生き返りを通して、人が生きることとイエスの死の関わりを見ていくことだと思わされております。何故かというと、ラザロはイエスによって一度は生き返りましたが、後に、どのような死に方かはわかりませんが死んだ人であることは確かです。ですから「復活」という言葉よりも「生き返り」のほうが、言葉としてふさわしいと考えます。
 そのようなことを思います時、11章はラザロの生き返りとイエスの死に関して「イエスが殺される」ことに関する言葉によってイエスの死を伝えようとしています。53節に「この日から、彼ら(ファリサイ派の人達、大祭司カイアファ=筆者記入)はイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているからです。ここにいう「たくらみ」は、これから取り組もうということではなく「具体策を練る」ことを意味します。1~6章までのイエスの言動、特に6章においての言葉がユダヤ人達の中に怒りを引き起こしていたと考えられますが、7章1節の「殺そうとねらっていた」という言葉では、まだ具体的な行動を引き起こすまでには至っていなかったと思われます。では何故11章はイエスを殺すことに関して具体策を練り始めたのかを考える必要があります。
 ヨハネ福音書の2章、6章では「しるし」ということが書かれていましたが、11章の「ラザロの生き返り」はしるしとして捉えられていません。また奇跡を伝えようという思いもなかったでしょう。そうではなくて、イエスの死が無ければ一人の人が「生きる」ことは起こらない、とヨハネは伝えているのです。ですから、ラザロの「生き返り」は、イエスの十字架の死こそが人を復活に至らせる道であることの象徴として書かれている箇所なのです。
パウロが「わたしたちも新しい命に生きる」(ローマ書6章4節参照)と書いています。この箇所は「復活」に関することを伝えていますが、ヨハネ11章の「ラザロの生き返り」は先ほども書きましたように、復活そのものではありませんが、「復活」あるいは「新しい生命」を象徴する記述として捉えることが大切なのです。
 このように考えてまいりますと、本日課題として与えられている「神の栄光を現す」というよりも、ラザロの生き返りの記述の中にイエスの死と、その死による「新しい生命」に対しての、神の深い計画が表されているということが出来るのです。
 ですからヨハネ1章において「世の罪を取り除く神の子羊」という言葉を通して十字架の出来事を見ていますが、11章もそのことをしっかりと伝える記述になっているということが出来ます。
 最後に「栄光」(ギリシャ語では δόξα=ドクサ)という言葉が持つ意味は、「この人(方)にとって最もよく似合っていること」という意味があります。今回の箇所において、一人の人が新しく生きることの背後にイエスの死があるということは、イエスの死こそイエスにとって「栄光」の出来事であると受け止める必要があります。
【設問】 「キリストによって生きる」とパウロが語った意味を考え合ってください。
参考賛美「一度死にし我をも」(新聖歌 202番)

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