2020年夏号・成人科7月26日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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海を乾いた地に変えられる神 出エジプト記 14:19-31

◯はじめに
 出エジプトの出来事は単にイスラエル民族の歴史だけではなく、全ての民に対する神様の愛と導きを現す預言的、霊的な出来事なのです。ですから現代の私たちも単にイスラエルの歴史として学ぶのではなく、自分の霊的な出来事としてとらえ、ここから信仰に生きることや、神様を信頼することを学ぶのです。
1、わたしが主であることを知る
 人生の中でもっともすばらしいことは、神様が生きて私たちの中に働いておられることを発見することなのです。イスラエルの民も、エジプトの民も、出エジプトの出来事を通して、イスラエルには神様が共におられることを経験したことでしょう。魂が神様に深く結びつく時は、物事がうまく運び、問題がない時ではなく、患難や困難が私たちを襲って来る時なのです。その困難の真ん中にあって、私たちと共におられ、決して見放されることがないと、わかる時ほど幸いなことはないのです。エジプトを出立した民には、主が昼は、雲の柱の中に、夜は火の柱の中にいて、彼らの前を歩まれたのです。
 ファラオはイスラエルの民がエジプトを出ることを一度は許したけれども、民が荒野で迷っている様子を見て、思いを変えエジプトの全戦車を率いて、後 (あと)を追いかけ、民が海辺に宿営している所に追いついたのです。民たちはエジプトを出たものの、追い詰められ、目の前の現実に恐れ、主に向かって叫んだのです。彼らは、ここに来てなお主が共にいる現実を悟れなかったのです。その時彼らは「ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。」(12節)と叫んだのです。目の前の恐怖におののいたからです。しかし、主は彼らの中に居(お)られたのです。神様には彼らを導き守る手だて、計画があったのです。主がなさる大きな業を知るためには、主が共におられることを信じ、主に信頼することなのです。私たちの人生にも絶えず困難や試練が伴いますが、神様は決して私たちに悪いことをなさる方ではないのです。現実の厳しさの中にあっても、いつも主は私たちと共にあることを知ることが信仰生活なのです。
2、乾いた地を進んで行った
 恐れは民の上にのしかかりました。その時、雲の柱は民とエジプトの軍隊との間に割って入り、真っ黒の雲となって、真夜中の闇と混じり、追っ手の視野をさえぎられたのです。主は私たちの弱さを覆い隠し、恐るべき敵をも覆ってくださいます。どんな苦しい現実よりも、神様の愛と恵みは、もっと間違いない現実です。肉の目で見える現実は、罪と恐れというフィルタがかけられ、罪の偽りが心を支配して、恐れを感じてしまいます。神様は約束を守られ契約を完成して下さる方です。このピンチこそ神が共におられる瞬間でもあるのです。その時、神様は、モーセに手を伸ばすことを命じました(21節参照)。そのとたん強い風が吹いてきて海の水を押しのけて民が行く道を作られたのです。イスラエルの民はその中を、神に身を委ねて進んで言ったのです。そこは乾いた地となっていました。後(あと)を追って海に入って来たエジプトの戦車は、車輪がぬかるみ、前進することができなくなったのです。民たちが皆、陸に上がるとモーセは再び手を上げたのです。海はもとに戻り、エジプトの軍勢は海の中にいて、皆おぼれ一人も残らなかったのです。
 この出来事こそキリストにあるバプテスマを預言する出来事なのです。イスラエルの民はここで、神様の御手の中に命を預けて生きる。肉による生活に死に、神と共に歩む命に生きる決断をしたのです。ここから新しい命、人生が始まって行くのです。

設 問 紅海の渡りは、クリスチャン生活とどういう意味があるでしょうか。

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