2021年冬号・2月21日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
ラザロを生き返らせるイエスさま ――ヨハネ 11:38-44
伝えるポイント;イエスは、ラザロを生き返らせることを通して、不信仰と死に対しての勝利を人々に示された。

ポイント1、(感情をぶつけるマルタ)
 マルタはイエスが家に着く前に迎えに出て行って、お会いするや否やいきなり「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と感情をぶちまけた。「遅いじゃないですか!」と。ラザロの死そのものはイエスのせいでないことは頭では理解している。しかし、それにしても来て下さるのが遅かった。大至急で知らせを送ったのに、今頃のこのこと来られた。せめて息のある間に駆けつけて下されば、ラザロは最後に一目お会いできたであろうに。どうしてこんなに遅かったのかという非難の思いが吐露されている。神様のなさり方は、たいていそうだ。一体いつまで待てば良いのだ。そんなふうに私たちは見捨てられた思いになりやすい。わが身の不幸は神の責任だと。しかしこのマルタに対し、イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(25節)」

ポイント2、(慟哭したマリア)
 マルタの妹のマリアも、後からイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言い、泣いた。(32節)
 マリアを追って来た大勢の群衆もまた泣いていた。するとイエスは、およそ神とは思えない、神の有様とは程遠い状態となられた。イエスは「心に憤りを覚え、興奮し」そして「涙を流された(35節)。」あらかじめ死人を復活させる力をお持ちであり、いままさにその大能を働かせようとしておられたにもかかわらず、このお方は人の心の悲痛な叫びをもろに受け止め、ご自身の心もまた張り裂けんばかりに痛み苦しまれる、そういった感情をお持ちのお方である。神の愛は人の愛とは程遠い完全無欠なものととらえやすいが、イエスの愛の姿はあまりの悲しみの時には激しく身もだえして涙を流される、そのような愛である。

ポイント3、
 ラザロは復活した。この大事件はまたたくまに民衆に広まった。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。(11章47節)「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」すると、会議の席上でその年の大祭司であったカイアファは次のように言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。(11章50節)」こうしてラザロの復活は、ユダヤ最高法院がイエスを死刑にすべきだという結論を固める直接の契機となった。

■ 中高科
ラザロを生き返らせるイエスさま ―――ヨハネ 11:38-44
伝えるポイント;イエスは、ラザロを生き返らせることを通して、不信仰と死に対しての勝利を人々に示された。

準 備
 ベタニアのラザロが病気になったので、彼の姉妹たちはペレア(ヨルダン川の東岸)で伝道しておられたイエスに使いをやって直ぐに来て欲しいと言わせた。ベタニアはエルサレムから3キロ程離れた町で、ペレアからベタニアまではおよそ20キロなので、5~6時間で行ける距離であった。ラザロはマルタとマリアの兄弟であった。イエスはこの兄弟たちと親しくしておられ、度々彼らの家を訪ねたことであろう。彼らの両親は早く亡くなり、マルタは長女で母親代わりをしていた(ルカ10:38-42参照)。マリアはイエスに香油を注ぎ髪の毛で拭くほどイエスを敬っていた(マルコ14:3-9参照)。3節の彼らがイエスを愛する愛は、「人が友を大切に愛する」ことを表す、「フィレオ―」が用いられ、5節のイエスが彼らを愛する愛は、「神の愛をもって愛する」ことを表す、「アガペー」が用いられている。
 イエスは病のことを聞いても、なお二日そこに留まられた。それはラザロが死後4日を経過して、甦ることなど考えられないと思う時に彼を甦らせ、イエスが、「復活の主であり、永遠のいのちを持つお方」であることが鮮やかにされ、神の栄光が賛えられるためであった。
 ラザロのもとに行った時に皆が泣いているのを見て、「心に憤りを覚えられた」(33節)のは、人々が復活の信仰に目が開かれていないことと、世界を滅ぼそうとする悪魔の働きに対する憤りであると解釈したい。


説教例
 みなさんはどんなスポーツが好きですか。どのスポーツでも一番興奮するのは逆転の勝利があった時ですね。イエスさまが十字架の死から復活されたことにより、人間には逆転の勝利が与えられたと言えます。今朝はイエスさまが復活について教えられた個所から学びましょう。
 イエスさまはベタニアに住むマリアとマルタ、そして弟のラザロの兄弟たちと親しくしておられました。ベタニアはエルサレムの近くにある町なので、イエスさまがエルサレムに来られた時に、しばしば彼らの家を訪ねて語り合ったりしていました。マリアはイエスさまに高価な香油を塗って、それを自分の髪の毛で拭ったことがありました。それほどイエスさまのことを敬っていたのです。またマルタもイエスさまが家に来られた時に心からおもてなしをするほどイエスさまのことを敬愛していました。またイエスさまも彼らを愛しておられました。
 そのラザロが重い病気になったので、ラザロの姉妹たちはイエスさまの所に使いを送り、「急いで来てラザロを癒して欲しい」と伝えさせました。ところが、イエスさまは直ぐに行こうとされないで、なお2日その場所に留まられただけではなく、他の町にも伝道に行かれたのです。そして使いの者に、「その病気は死で終らないばかりか、神が栄光を受けられるためである」と言われました。また弟子たちにも、「わたしがその場に居合わせなかったので、あなた方が復活の力を信じるようになる」とも言われたのです。
 イエスさまがベタニアに着いた時、ラザロが死んでからすでに4日も経っていました。イエスさまのお姿を見たマルタもマリアも、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら弟は死ななかったでしょう」と少し腹立たしげに言いました。それに対してイエスさまは、「あなたの弟は復活する」、また「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は誰でも決して死ぬことはない」と断言されたのです。そして墓に葬られていたラザロに向かって、「ラザロよ、出て来なさい」と命じられました。すると手足を布で巻かれたラザロが墓から出て来たのです。人々は驚き、言葉を失ったことでしょう。そして人々は、イエスさまが神の御子であり、復活の命と権威を持つお方であることを信じるようになりました。
 私たちの生活でも、「もう無理だ」とか、「これで一巻の終わりだ」と思うようなことがあったとしても、そのような時には、それを逆転させて下さるイエスさまがおられることを思い起こしましょう。

■ 小学科
ラザロを生き返らせるイエスさま ―――ヨハネ 11:38-44
伝えるポイント;イエスは、ラザロを生き返らせることを通して、不信仰と死に対しての勝利を人々に示された。

準 備
 不信仰と死は世に蔓延している。救いは人の目に見える形でまだ現わされていないが、そのような中においても、主イエス・キリストを信じる者は、キリストを通して神の愛が勝利し、神がご自身の栄光を見せて下さると信じて歩むことができる。

説教例
 人間は一度死ねばもう生き返りません。でも、今日の聖書の話では違っていました。病気で死んだラザロという人が、イエスさまの大きな呼びかけで生き返った(復活した)のです。息や心臓が少しの間だけ止まる仮死状態なら、もう一度息を吹き返すかもしれません。しかし、ラザロは死んでから4日も経っていたのです。生き返る可能性はもうなかったでしょう。死ぬと、人間の体はどんどん腐っていきます。マルタが言っていたように、(嫌な)においがしてくるのです(39節)。にもかかわらずラザロは生き返りました。これは神さまの力がラザロに働いたことを表しています。魔法でもなく、いんちきでもなく、イエスさまを通して、神さまがその大きな愛の力をもってラザロに働き、神さまの栄光を見せてくださったのです。
 ちなみに、この場面でイエスさまは「心に憤りを覚えて」おられました(38節)。イエスさまはとても怒っておられたのです。何に? 誰に対して? ラザロがもう生き返ることはないと考えて、墓の石を取り除けようとしなかったラザロの姉妹マルタに怒っておられたのでしょうか? 確かにイエスさまはマルタに言われました、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。これは、マルタの「不信仰(信じない心)」をお叱りになったのです。しかし、他にもっと大きく怒っておられたことがあったのではないでしょうか? ラザロを死なせた「死の力」に対する怒りです。神さまはラザロを心から愛しておられました。そのラザロを殺した病気、人間を死に追いやる「死の力」そのものに、イエスさまは激しい怒りを覚えておられたのです。逆に言うと、そんな激しい怒りを覚えるほど、ラザロを愛し、大切に思い、救おうとしてくださったのです。
 「ラザロ、出て来なさい」、イエスさまの大きな呼びかけで、ラザロは生き返ります。たった一声で、死の力を打ち負かされたのです。しかし、それは戦いの始まりにすぎませんでした。この後、イエスさまはご自分の身をもって死の力と戦うことになったのです。ご自身が苦しみを受け、十字架の上で命をささげる――死ぬことだったのです。つまり、神の独り子イエスさまが死ななければならないほど、私たちを覆う死の力が重く、また大きいということでしょう。実際、新型コロナウイルスが世界に出てきてから、たくさんの人々が命を奪われています。早く終わってほしいですが、いつ終わるのかはっきり分かりません。どうなるか分からないので余計に不安になります。そんな中でも、イエスさまは私たちに声を掛けてくださるのです、「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と。イエスさまの十字架と復活は、死の力を打ち砕きました。神さまの愛による勝利です。イエスさまがラザロを生き返らせた出来事は、イエスさまがその勝利に向かって力強く歩まれ始めたことを示しています。ラザロに新しい命を与えたイエスさまの声が、今日私たちにも届けられているのです。

■ 小学科ワーク

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