「日の名残り」を読んで

カズオイシグロの「日の名残り」を読みました。

ちょっと感想を検索してみても出てこなかったのでここでメモのように書いておこうと思います。ネタバレを含むと思います。私が勝手に想像することが主ですが、もし内容を楽しみにしたいという方がいたら読まない方がいいと思います。

では、感想の続き。

人によって気になる部分はそれぞれな内容だったと思います。

「日の名残り」はイギリスにある立派なお屋敷に勤める執事スティーブンスが人生におけるあれやこれやへの「後悔」を探りつつ「やはりあれしかなかったのだ」と認め直そうとする旅路のお話です。

彼の人生のどこに注目するかは、繰り返しとなりますが人それぞれ。その中で私が一番ひっかかったのは彼の父のことでした。

スティーブンスの様子を伺うと執事というものは家族を持たないもののようです。実際のイギリス執事の事情については無知な私の想像にすぎませんが、でもどうやら執事たるもの家庭なんて持っていられなそうです。その執事の中でも特に執事という職業に誇りを抱いているスティーブンスに同じく執事の父親がいたことがまず不思議でした。そして一切母のことが描かれていないことも。

母親は早くに亡くなってしまったのでしょうか?それともそもそもいなかったのでしょうか?女中と召使いの駆け落ちの話が途中で出てきました。どうやら召使いというものは結婚=辞職という時代だったのでは、と思えてきます。そして執事など身分の高い召使いが出会える相手といえば、ごく限られた世界の相手、つまり女中くらいしかいなかったのでは。スティーブンスの父親が生涯執事や副執事という職務を全うしたということは、父親は結婚していなかったのでは?ではスティーブンスはいったいどこからやってきたのでしょう?

カズオイシグロの作品の面白さはこういう描かれていない部分にあると私は感じています。

私の想像では、スティーブンスは父親が過去勤めていたどこぞかのお屋敷に捨てられた赤子だったのではないでしょうか。その赤ん坊を拾って父親は大切に育て上げた。執事だった父親が教えてやれることは同じく執事という職務だけだった。父親は死の間際、スティーブンスにとって自分は本当に父親でいられたのかどうかを問うてます。これは、親の死に際になっても職務の方を優先せざるおえないような人生を息子に歩ませてしまった自分は正しかったのだろうか、と自らに問うていたのではないでしょうか。

スティーブンスがもし捨て子という状況から、あのような立派なお屋敷の執事として人生を全うしようとしている、と考えるとただでさえ郷愁漂うこの作品がさらに黄昏てくるように思えます。

彼の人生は幸せだったのでしょうか。

私は幸せだったと思いました。

不器用な父に育てられ、自らも不器用でミス・ケントンという幸せをつかむチャンスを逃し、小さな小さな世界で必死に自らを磨き上げ、責任あるように周囲から勝手に評価されていたが、本質はただただ主人に従っていただけの空っぽな人間であると自らを確認する旅に出た彼は、それでも自分を最後に認めてこの小説は終わります。

私は今、息子二人と兼業主夫の夫と暮らしています。一生独身で、いろんなものを作って強く自由に生きていこうと思っていたのですが、気がつけばお金を稼ぎ、家族を守るのがもっとも優先すべき事柄となってしまいました。

先日文学フリマにイラスト集を持って出ました。結果は全く売れず。隣のブースの方が1冊買ってくださったのみでした。下の子を両親に預け、上の子を夫に預け、家族総出で協力してもらったのに、自分の表現活動の乏しさにがっかりだけしにいった1日となりました。それでも、ふいに今の人生だってすごく幸せじゃないか、と思えることが多いです。文学フリマでは売れなくても、仕事として私に依頼してくれる人はいて、自分が描いたものをお金に換えて家族を養っている。十分立派なことではないか、と。

人生にはいろんなことが起こりますが、いつかうじうじ悩みつつも全てを認められる日が来ますように。そしてそのうじうじに気持ちよく浸れる日がきますように。まさに「日の名残り」を楽しみ、惜しみ、最後にそれでも夕陽はできるなら美しいと感じながら沈む姿を眺めていたい、そんな風に思わせる一冊でした。

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